第一幕
黒猫雑貨店
1. 虹の破片
その店は、町の中央に位置するリュフェーシカ噴水広場から、北の大通りに入り、右手三本目の道 ―― 「カバラフ精肉店」 のある角 ―― を曲がって、暗い路地裏をしばらく行ったところにあった。
私は、手に持っていた手描きの地図を丁寧に畳んで、黒いコートの左ポケットにしまい、店の看板を見上げた。黒い木製の板が、猫の形に切り出されている。その板には、 「黒猫雑貨店」 と浮き彫りされた、金属板が取り付けてあった。
おそらく、よほど以前に建てられた建物なのだろう。石造りの外壁は、所々黒ずんでいた。小窓のない、古びた緑色のドアーには、 「営業中」 と赤いインクで書かれた板切れが下げられている。
三段ほどの小さな石段を上ると、一つ小さく深呼吸をしてから、私はドアノブに手をかけようとした。
が、不意に、ドアノブが逃げた。いや、何者かによって、ドアーが店の内に向かって開けられたのだった。
カランカラン、と、ベルの涼やかな音が鳴る。
私は、突然のことに、空を掴んだ左手を引っ込めることも忘れてしまった。
「いらっしゃいませ」
静かな声と共に店の中から現れたのは、年の頃、十歳ほどの少女だった。
かなり細身で、病気なのではと疑うほどに青白い顔をしている。ブルーとホワイトを基調とした清楚な服を着用しているので、尚更それが際立った。
頭髪は、腰までの長さの、癖のないシルバー・ブロンド。全体として儚げな印象を受けるが、その双眸からは、何物にも動じない、確固とした意思の持ち主であることが感じられる。彼女は私を店内へと通すと、後ろ手にドアーを閉めた。
入るなり、木の床が放つ、湿った匂いが私の鼻腔をくすぐった。私は店の中央へ進むと、ゆっくり周囲を見回す。
腰より下の高さには小物だんすが、それ以上の高さには棚が、隙間なく設置されている。棚の上には、年頃の少女が喜びそうな華やかな小物から、はなはだ地味な事務用品、変わった色形の日用品、果ては、ちょっとした園芸用品や工具まで、様々なものが所狭しと並べられていた。
しかし、その風景から、私は自分の探している品物を見つけ出すことができなかった。
暫時、棚の間を行ったりきたりしながら目当ての品を探していると、背中に 「何か、お探しのものがおありですか?」 という問いが投げかけられた。少女が発した、やや高めの声だった。振り返って見ると、彼女は、いつの間にかカウンターの椅子に座って、ポットのかかった薪ストーブに手をかざしていた。
私は、少女に向かって小さく頷く。
「この店で、 『虹の破片』 を売っていると聞いてきたのですが」
その言葉を聞いた少女は、にわかに目を見ひらく。
「 『虹の破片』 …… ですか」
「はい」
ふっ、と、店内が静かになった。
二人の間で、ポットがシューシューと音を立てる。
何も話しはしなかったものの、少女が私の顔から目を逸らそうとしなかったので、しばらくの間、私たちはそのまま向かい合っていた。
と、不意に、カラン、と一つ、小さくドア・ベルが鳴った。しかし、それはドアーの上部に取り付けられたものではなく、ドアーの下のほうに取り付けられた小さなドアー ―― よく、犬猫のような動物が出入りする際に使用されるものだ ―― に下げられたものだった。
特別製のドアーを開けて店内へ入ってきたのは、一匹の、小さな黒い猫だった。
その猫を見るなり、少女は 「お帰りなさい、お婆様」 と言って席を立ち、カウンターの上に置いてあった丸いクッションを、ストーブに一番近い位置まで移動した。
「外は寒かったでしょう?」
「ああ、たった今、雪が降り出したところさ」
少女の問いに、黒猫は身震いしながら答えた。
「積もる前に帰ってこられてよかったよ」
一つ伸びると、先ほどまで少女が座っていた椅子にゆっくりと歩み寄り、それを足がかりにして、カウンターの上のクッションにひょいと飛び乗った。
その奇妙な光景を、私は、ただただ眺めていた。
黒猫はクッションの上で丸くなり、ふう、と小さく溜息を吐くと、ようやく私の存在に気付いたのか、おや、と声をあげる。
「お客さんかい? 珍しいねぇ。どちらから?」
「トリチュアのマヤからきました」
私は答えた。
「マヤ? …… ああ、あのマヤかい。遠いところからよくきたねぇ」
「はい」
「お婆様、こちらの方は、虹の破片をご所望だそうです」
すかさず、少女が説明を入れる。その言葉を聞いた黒猫は、もともと大きな金の瞳をさらに大きくして、私を見た。
「 『虹の破片』 かい?」
「はい」
私は返事をした。
「虹の破片ねぇ。そんなものを、一体何に使うんだい?」
「人形の瞳に使いたいのです」
「なるほどねぇ。あんた、人形職人さんかい?」
「はい」
答えて、私は両手にはめていた、黒い皮製の手袋を外した。縁に、同じく黒色のファーが縫い取りされている手袋だ。
ここでは、両手の甲に紅く刻まれた、シルフィアイの紋章を隠す必要はないと確信したためだった。
「そうかい、そうかい。 『虹の破片』 ねぇ。あんたみたいなお客がきたのは久しぶりだよ」
楽しそうにそう言って 「よいしょ」 と起きあがると、黒猫は、大きなあくびをしながら体を伸ばした。そして、クッションを立ち、カウンターからひらりと飛び降りると、ゆっくり真正面の棚へと向かう。
その動きに合わせ、少女も素早く立ちあがると、先ほどまで自分の座っていた椅子を持って、黒猫の後を追った。
少女が、椅子を棚の前に置く。
「ありがとう、スヴェーナ」
一つ礼を言って、黒猫はその椅子を踏み台にし、目的の棚の上へとあがった。お互いに慣れているのだろうか、見事な連携だ。
黒猫の目指した棚は、アクセサリー類の並べられた棚だった。棚の縦仕切りのすぐ右側部分には、小さな指輪の入ったガラス瓶が、数本並べられている。黒猫は、その瓶の裏側へと回りこんだ。
「いつ頃から、シルフィアイに?」
大きな二つの瓶の隙間から、黒猫が、半ば怒鳴るように問いかけてきた。
その質問に、変わった植物の鉢植えをぼんやりと眺めていた私は、振り返って答える。
「五歳の春からです」
「ああ、五歳の春かい。そのくらいの年頃の男の子は、ちょうど、シルフィアイになりやすいからね。そこにいる私の孫も、あんたと同じ、シルフィアイさ」
棚の奥で、何やらカチャカチャやりながら、黒猫は言った。
私は、少女のほうを振り返る。すると彼女は、ふい、と、私から目を逸らしてしまった。
「ああ、あったあった。これだよ」
嬉しそうな声があがったかと思うと、埃をかぶった、板状の小さな物質が二つ、瓶の間から転がり出てきた。
続いて、瓶の列の終わりから、黒猫がひょっこりと顔をあらわす。
「 『虹の破片』 ねぇ。見るのも久しぶりだよ」
黒猫は二つの虹色の物質を眺めると、感慨深そうに言って小首を傾げ、小さな左前足でそれを示した。
「この大きさでいいかい?」
私は、黒猫に向かって深く頷く。
「はい。幾らお支払いすればよろしいでしょうか?」
「お代なんていらないさ。虹の破片なんて、ほとんど、ただのガラクタと同じだからねぇ」
答えて、黒猫は頭で 『虹の破片』 を私の方へと押しやった。
「ほら、持っていきなさい」
「ありがとうございます」
古びた木板上の石を手に取ると、私はそれを、コートの内ポケットにしまった。
「では、私はこれで失礼します」
感謝の気持ちを込めて一礼すると、私は踝を返した。
背中に、老女の声がかかる。
「その人形が立てるようになったら、ぜひ、見せにきておくれね」
ドアーを開けると、カランカラン、と、涼やかな音が鳴った。途端に、冷たい空気が顔に吹き付ける。
外では、雪が積もり始めていた。
2. 夢見る瞳
海の見える、北の出窓。そこに腰掛け、見た目五歳ほどの無表情な少女が、まだナイト・ウェア姿のまま、静かに水平線を眺めていた。
風にもてあそばれ、肩にかかる亜麻色の髪が微かに揺れている。
目立った家具といえばテーブルくらいしかない、この殺風景なダイニング・キッチンに、開け放たれた窓たちは、新鮮な風と穏やかな陽光とを絶えず送り込んでいた。
私がテーブルの上に白いマグカップを置くと、その音に反応してか、カタタ、という微音とともに、彼女は素早く私のほうを振り返った。ふわりと床板の上から降りると、カタカタと、ゆっくりテーブルに向かって歩んでくる。
それまでおこなっていた朝食の準備を一度中断し、私は近寄ってきた少女を抱え上げると、背もたれつきの丸椅子の上に座らせた。
しばらくの間、少女は、私がサニーサイドエッグやトーストの皿を運ぶのを大人しく眺めていたが、何を思ったか、ふと、バターナイフに手を伸ばした。それをそっと持ち上げると、物珍しそうに眺め、再び、繊細な手つきで元あった場所に戻す。
一人分の朝食の準備が整うと、私は少女の向かい側の椅子に腰を下ろし、バターの入ったトレイとバターナイフとを手に取った。バターを少量すくい、トーストにまんべんなく塗る。塗り終えたら、トレイとナイフの両方を、同時に元の位置に戻した。続いて、跳ねないように留意しつつ、カップにミルクを注ぐ。
少女は、その様子を逐一、ただ黙って見つめていた。
私は、ミルクの入った紙パックをテーブルの上に置きながら、少女に言う。
「今日は出かけます」
少女は暫時私を見つめ、軽く小首を傾げる。が、その後すぐに首を縦に戻して、カタン、と一つ頷いた。それが了承の意を表すものか否か、私には判じ得なかった。しかし、彼女は椅子から下りると、迷うことなく部屋の西側に位置するドアーから、静かに廊下へと出ていった。
部屋に一人残された私は、まず、トーストを食べ終えた。次に、サニーサイドエッグに手をつける。完食すると、最後にマグカップの中身を飲み干し、トーストの皿、サニーサイドエッグの皿、マグカップと順に重ねた。
私が食器を持って席を立つのとほぼ同時に、少女が再びダイニングのドアーをひらいた。服装が、ナイト・ウェアから、フリルやレースをふんだんに使用した、よそ行きの赤いワンピースへと換わっている。どうやら、私の言葉を理解してくれていたようだ。
手にしていた食器の山をそっとシンクの底に置くと、私は少女に背を向け、一つ一つをスポンジで軽く洗い始めた。その間、背後からは、絶えず、カタカタという微かな音が聞こえていた。
食器を乾いた布で拭き、食器棚の中の決められた位置に収めると、私は開いている全ての窓を閉めた。もうすぐ出かけるということを悟ったのか、少女は部屋の南側のドアーを開け、私が先に出るのを待っていた。
他に閉め忘れた箇所がないか確認すると、私たちは部屋を出た。
玄関前で立ち止まり、私は、右側の壁に設置されている外套かけに手を伸ばした。春用の黒いロング・コートに袖を通し、7つのボタンを、上から順にしっかりと閉める。
私がそうしている間、右隣に大人しく立っていた少女は、いつの間にか、外套かけから白いシルクの手袋を取り外していた。いつもの手順を覚えていたのだろう。それを、私に差し出した。
黙って受け取ると、私は両の手に手袋をはめる。そして、自分のコートの左ポケットから、少女用の小さな手袋を取り出した。私のものと同じく、シルク製の白い手袋だったが、縁には、繊細な糸で編まれたレースが縫い取りされている。
少女は私のほうに手を差し出し、私は、彼女の手に手袋をはめる。
続いて、首には薄桃色のスカーフを、頭には、リボンや花飾りのついた白い帽子を。それぞれ外套かけから取り、しかるべき方法で着せた。
最後に、二人揃って、外出用のブーツに履き替える。
準備がすっかり整うと、私はドアーをひらき、石段へと足を踏み出した。
瞬間、陽の光が視界を覆う。
私はあまりの眩しさに、立ち止まって左腕で両眼の前を覆った。急停止したからか、少女の顔が、私の両腿の裏側にぶつかった。
目を光に慣らしながら、徐々に腕を下ろす。
視力がすっかり回復すると、私は振り返り、少女を抱き上げた。いつも感じていることではあるが、やはり、軽い。
そのまま、私は壁沿いに歩いて家の東側に回り、自転車の置いてある場所へと向かった。錆ひとつない銀色の自転車の前に立つと、少女を後部座席に乗せる。右足で軽く蹴ってストッパーを上げ、押して転がした。
門の前までくると、一度、ストッパーを立て、両開きの扉を開ける。
ギィ、という、耳に心地よい金属音。
外に出たら、再び自転車を停め、門扉をきちんと閉めなおした。
自転車を漕ぎ出し、一本の道伝いに、東へ向かって走る。周囲には、ただ草原しかない。
やがてT字路に差しかかると、私は、ゆるやかなカーブ描く黒いハンドルを、左へ向けた。途端、眼下に、マヤの街並みと、青い海とが広がる。やや急な下り坂だ。ペダルは漕がず、速度をブレーキで調節しながら、ひたすら北へ下った。
自宅を発ってから、およそ十分後。再び、道が二手に分かれた。私は速度を緩めないまま、迷うことなく右の道を選んだ。
視線の先には、東西に伸びる、細い線路。
草原の中の一本道をさらに北東へ下り、遮断機も信号もない踏切を突っ切ると、まもなく、目指す場所が見えてくる。
首だけで後ろを振り返って、私は視界の端で少女の様子を窺った。
少女は左手で帽子を押さえ、右手でしっかりと後部座席の握りを掴んでいた。視線は、真っ直ぐ海岸線に注がれている。帽子の飾りとして縫いつけてある白いリボンが、向かい風に吹かれて踊っているように見えた。
その姿を確認すると、私は、再び前に向き直る。そして、徐々にブレーキを握る手に力を加えていった。
自転車の速度が落ちていく。
ふと、道が途切れた。
自転車のタイヤが、短草の絨毯の中に埋もれる。
私は頃合を見計らって、瞬間的にブレーキをかけた。キッ、という音とともに、車輪の回転が止まった。
自転車から降りると、その位置でストッパーを立てる。私は後部座席へと回り込み、未だ左手を頭に置いたままの無表情な少女を、ふわりと抱きあげた。
そのまま、白い砂浜へ向かって歩き出す。
海水に反射する光を受け、少女の瞳がキラキラと虹色に輝いた。
海面にほど近い、しかし、白波に足を撫でられる心配のない位置に到達すると、私は立ち止まる。同時に、少女を砂の上に下ろした。
一瞬、よろける少女。が、すぐに私のコートの裾を小さな手で引いてバランスをとり、遠く前方に視線を移す。
暫時、少女は黙って海を見つめていた。
ふと、おもむろに右手を真っ直ぐ前方に伸ばし、人差し指で煌く海原を示すと、少女は私を見て、小さく首を傾げる。実際に、私がその光景を見たわけではないのだが。
私は視線を前に投げた状態で、無言の問いかけに答える。
「海、です」
「うみ」
ぽつり、と、少女が呟いた。
私は、依然、水平線を見つめたまま。
「綺麗ですね」
誰にともなく言った。
「綺麗」 というその単語を、まるでこだまのように、少女は反復する。
「きれい」
そして、ふわり、と微笑んだ。
「きれい、ですね」
3. 甘い星屑
私の住む土地であるマヤから、隣国イルークスのリュフェーシカまで鉄道で行くには、およそ一時間を要する。マヤの駅には大抵、一日に四回汽車が停まるが、内、リュフェーシカ直通のものは一本のみだ。
午前九時ちょうど、私たちは自宅を出発した。風のない、晴れた日だ。坂の一本道を自転車で下り、マヤの駅へ到着したのは、三十分後 ―― 九時三十分だった。
線路沿いの駐輪場に銀色の自転車を停め、駅舎へ入ったのは九時三十五分。窓口にて、九時四十分着、十時発 「トリチュア・イルークス横断鉄道ファイラクア経由リュフェーシカ行き」 の切符を二枚購入した。一枚には 「大人」 、もう一枚には 「小人」 と書かれている。
私たちが駅のホームへ出たのとほぼ同時に、汽車は到着した。私たちは、黒光りする外装に沿ってコンクリートの上を歩き、最後尾の車両、すなわち四両目のドアーをくぐった。
水曜日ということもあり、空席が多かった。できる限りドアーから遠いところを、と、私は車両中央付近の座席を選び、右傍らに張りついている少女に勧めた。自転車を降りてこの方、私の黒いコートを掴んで離さなかった彼女だったが、ようやくその小さな掌をそっとひらいた。
少女は私を見上げ、一つ楽しげな微笑を送ると、ひょいと座席に飛び乗った。私も、左手のアタッシュ・ケースを座席の上に載せてから、少女の右隣に静かに腰を下ろした。
発車の汽笛が高く響き、外の景色が流れ始める。すると、少女は体をひねって、座席の上に膝を乗せ、窓のほうへと向きなおった。外の景色が物珍しいのか、十分ほど、そのままの体勢でガラスと見つめ合っていた。
が、やがて飽きたのか、少女は一旦座席から降りると、今一度前を向いて座りなおした。たどたどしくスカートの裾をなでつけ、居ずまいを正す。そして、私を見上げて、満面の笑みを浮かべた。
マヤを発ってから、二十分後。傍らの少女は、私の左膝を枕に、静かな寝息を立てていた。私は、少女の頭へ中途半端にかぶさっている、白い飾り帽子をそっと取ると、アタッシュ・ケースの向こう側へ置いた。
その手で、ケースの中から静かに一冊の文庫を取り出し、適当なページをひらく。一行目には、こう書かれていた。 「汝が名は?」
ほどなくして、ファイラクアの駅に到着した。
同じ車両に乗っていた人々の大半は、ホームへと発っていった。同時に、約同数、あるいはそれ以上の人間が、車内へと流れ込んでくる。一時的に周囲がざわついたが、少女は目を覚まさなかった。
停車してから二十分後、ドアーが閉まり、再び発車の汽笛が鳴った。
ファイラクアから次の駅までは、大体、十分ほどだ。私は再び本のページに視線を落とし、続きを読み始めた。
十ページと三行を読み進めたところで、列車はハンスクの駅に到着した。ファイラクアより、人の出入りはなかった。
十分間停車した後、汽笛とともに、車窓に映る景色は再度、流れ始めた。
次の駅が終点だ。
私は、まだ読んでいない行の一行手前から、物語の続きを読み始める。 「否、それは遥かなる星辰の一片だ」
否、それは遥かなる ―― 。私は、パタン、と本を閉じた。
文庫を持った右手を座席に、左腕を背もたれの上に、静かに載せると、私は小さく息を吐いた。そして、向かいの窓に目を転じる。
ガラスの向こうを、ウィスキーの宣伝看板が流れていった。ミモザがその後を追う。続くは、赤い屋根、芝の緑、煙突、自転車に乗った子供が三人。
不意に、汽車が減速を始めた。十分が経過したらしい。私は、アタッシュ・ケースに本をしまい、ぐっすりと眠り込んでいる少女の、亜麻色の髪を梳いた。
少女は目を覚まし、ゆっくりと上体を起こす。
「んー、りゅふぇーしか?」
呟きながら、眠そうに目をこすった。きょろきょろと周囲を見回した後、私の顔を仰ぎ見る。
「はい」
私が答えると、少女はにっこりと笑った。
一つ、長く汽笛を響かせ、汽車が停まる。
私はドアーがひらいてから立ち上がり、右手で、アタッシュ・ケースを持ち上げた。同時に、私の黒いコートの左側へ、少女が楽しげに笑って取りつく。私は席上の白い帽子を取り上げると、彼女の頭上に載せた。
駅の構内を出れば、すぐ目の前は大通りだ。駅舎出入り口のひさしの下まで行き、私は脇へ避けて立ち止まった。
左下へ目線を落とすと、少女が不思議そうな顔で私を見上げている。私は屈み、彼女と目線を合わせた。
「ここから、三十分ほどの時間がかかります。自分で歩きますか? それとも、背負いましょうか?」
小さく小首を傾げる少女。しかし、次の瞬間には、ぱっ、と笑顔に変わる。まるでスライドのようだ。
「せおって、いただけますか?」
私の問いに対する返事は、数秒の間を置いて返ってきた。私は小さく頷くと、少女を自分の背に乗せた。襟の後ろから、小さな腕が回される。
私は、再び石畳の上を歩き出した。ひさしの外へ出る。
不意に、視界が白一色に染まった。
目を細めて立ち止まった私の顔を、少女が左肩から覗き込む。
「まぶしいのですか?」
「はい」
「では 『えきのでぐち』 になります」
言って、少女は、全ての指を隙間なくつけた両手の平を、私の額にかざした。目の周囲に、小さな影ができる。
「ありがとうございます」
私は歩を進めた。
自動車の切れ目を狙って駅前通りを渡り、商店街の歩道を、ひたすら真っ直ぐ行く。すれ違う人々の内、幾人かは、何が珍しいのか、妙な表情で私たちを顧みていった。
駅を出てから、十分ほど歩いた頃だろうか。私たちは、噴水広場に到着した。
「あれは、なにですか?」
少女は、私の額につけていた両の手を離し、一旦、私の肩上に載せてから、右腕を上げ、飛沫をあげる水の柱を指差した。
「噴水、です」
私は答えた。
「ふんすい?」
「はい」
「きれい、ですね」
そう言って、少女は微笑んだ。
「そうですね」
私は、前を向いたまま答えた。
噴水の脇を通り過ぎ、北の大通りに入る。左手のクレープ・ショップから漂う甘い香りが、鼻腔をくすぐった。背中の少女は、店頭に並ぶ子供たちを振り返る。
「くれーぷ」
通りをしばらく歩くと、ようやく、右手に 「カバラフ精肉店」 の看板が見えた。私は、その手前の小路へと足を向ける。
「ここをまがるのですか?」
「はい」
「もうすぐですか?」
期待に満ちた口調だった。目的地へは、正面の狭い石段を上れば、ほんの二、三分で到着する。
「はい」
私は、石段の一段目に右足を乗せた。
二段、三段、四段 ―― 「かいだんの、うえ、なのですか?」
「はい」
今日、この石段の段数を数えることは諦めた。頭の後ろで、少女が楽しげに笑っている。
階段を上りきる頃には、額にうっすら汗が浮かんでいた。暑さには強いつもりだが、やはり、体を動かすと少々暑い。
私は屈んで少女を降ろすと、コートの左ポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭いた。そして、一息ついた後、ハンカチを元の場所にしまい、今度はその手で少女の右手を取って、再び、道なりに歩き始める。
「くろねこざっかてん!」
突然、少女が嬉しそうに声を上げた。前方に、目指す店の看板が見えたためだった。彼女は私を見上げながら、小さくスキップをする。
「ね、ここですか?」
「はい」
少女は、虹色の瞳を、ぱっ、と輝かせた。
店の前までくると、私たちは三段ほどの小さな石段を、揃って上る。そして、私がドアノブに手をかけた。
―― が、ドアノブは逃げた。
「いらっしゃいませ」
ひらかれたドアーの向こうには、シルバー・ブロンドの頭髪の少女。名は確か、
「こんにちは!」
私の脇に控えていた少女が、はきはきと挨拶した。その様子を見てか、雑貨店の少女は、軽く微笑む。
「こんにちは」
そうだ、スヴェーナ嬢だ。彼女はドアーをいっぱいにひらくと、私たちを店の中へ通した。
私は、ゆっくりと店内を見回す。およそ半年振りに訪れるが、全くと言っていいほど、変わった箇所は見受けられなかった。
カウンターの上には赤いクッション、その上には黒い猫。丸くなったまま動かないところを見ると、睡眠中のようだ。
「お婆様、以前お越しになった人形職人の方がいらっしゃいました」
言って、スヴェーナ嬢は猫の背をそっと撫でた。黒猫は、ゆっくりと頭をもたげる。
「おやおや、遠いところをよく、まぁ。スヴェーナ、椅子を出して差し上げなさいな」
そう、しわがれた高い声で言った。スヴェーナ嬢は一つ頷くと、素早くカウンターの後ろへ回り込み、すぐに二脚の丸椅子を引き出して、私と少女の前へ置いた。
「どうぞ、おかけください」
「ありがとうございます」
「ありがとうございます!」
それぞれ礼を述べると、私たちは椅子に腰を降ろす。その様子を、逐一、黒猫は金の双眸で見つめていた。
「それにしても、早いものだねぇ、まだ半年しか経っていないじゃないか。もう喋れるようになったのかい?」
「はい」
虹色の瞳で、少女が私を見上げる。ストーブの脇に立ったまま控えていたスヴェーナ嬢は、傍の丸椅子をカウンターの横へ移動させると、左手のドアーの向こうに消えていった。
「もう、関節の継ぎ目も残っていないじゃないか。相当の腕をお持ちのようだね」
「いいえ、破片の質が素晴らしかったおかげです」
私は、心からそう言った。
「お嬢ちゃん、名前は何ていうんだい?」
今度は、少女に顔を向ける黒猫。問われた少女は、困った表情を浮かべる。
「 『なまえ』 ? 『なまえ』 とは、なにですか?」
私に答えを求めた。
「 『海』 や 『噴水』 のような、ものの呼び方です」
「では、わたしのよびかたは、なにですか?」
返答に困る。
ほんのわずかの間、沈黙が場を支配した。
それを破る、老女の声。
「まだ名前を決めていなかったのかい?」
「はい」
黒猫の口調はいたって穏やかだったが、何故か、叱られたような気分になった。
不意に、左側のドアーがひらく。スヴェーナ嬢が、大き目のトレイを右手に持って現れたのだった。トレイの上には、カップが四つと、角砂糖の入った小瓶、そして、ミルクの入った小瓶。
「おや、ありがとうスヴェーナ。気の利く娘だね」
黒い尻尾の先が、パタパタと動く。スヴェーナ嬢は、黒猫に軽く頭を下げた。
トレイをカウンターに置き、白い無地のコーヒー・カップを手に取ると、無表情でそれを私に差し出す。
「ブラックです。お砂糖とミルクは、ご自由にどうぞ」
「ありがとうございます」
私は、両手で受け取った。芳しい香りが鼻をくすぐる。どうやら、挽きたてらしい。
続いて、スヴェーナ嬢は、野苺柄の小さなティーカップを、ソーサーごと持ち上げた。しかし、カップから湯気は立っていない。
「どうぞ」
一言発して、私の左隣に座る少女に手渡した。
ティーカップの中を覗き込んだ途端、少女は、ぱっ、と瞳を輝かせる。
「 『ほしくず』 ですね!」
嬉しそうにスヴェーナ嬢を見上げた。
「ええ、 『星屑』 です」
スヴェーナ嬢は微笑む。
ティーカップの底に沈んでいたのは、紅茶ではなく、三十余粒の金平糖だった。
私は黙ってコーヒーをすすりながら、少女の名前について考えていた。
4. 夕風に花
私が仕事部屋で、白い生地にミシンをかけている時のことだった。突然、玄関の呼び鈴が涼やかな音を立てた。
振り返って時計を見ると、時刻は十二時三十分ちょうど。このような時間に ―― 否、このような時間でなくとも、今日、誰かが尋ねてくる予定はない。突然の来客だ。
作業を中断し、私は椅子から立ち上がった。同時に、左手にあるドアーの向こう側から、パタパタという、慌しい足音が聞こえてくる。続いて、ガチャリ、と、玄関扉のノブを回す音。
「こんにちは!」
はきはきとした、少女の声。
私はドアーを半分だけひらいて廊下に出ると、玄関扉の向こうに立つ客人と顔を合わせた。
白い肌、シルバー・ブロンドの長髪、そして、澄んだディープ・ブルーの瞳を持つ、年の頃十歳ほどの少女。
スヴェーナ嬢だった。
紺色の夏物ワンピースの上から、いかにも高級そうな、レースのカーディガンをはおっている。彼女は身の前で革製のボストン・バッグを持ち、石段の上に両足をきちんと揃えて立っていた。
「こんにちは」
言って、迎えに出た少女と私とを順に見て、軽くおじぎをする。
「突然に申し訳ありませんが、今晩、泊めてはいただけないでしょうか」
私に対していつもそうであるように、いたって事務的に尋ねた。
本当に突然のことだ。私は、咄嗟に返事をすることができなかった。
少しの間を置いて、スヴェーナ嬢は続ける。
「お店の都合で、お婆様 …… いえ、祖母が、遠方へ出かけることになりまして。私は一人でも大丈夫だと言ったのですが、祖母が店を発つ前に、こちらを尋ねるように、と申したのです」
彼女の祖母の心中は察し得なかったが、私は 「そうですか」 と言い、小さく頷いた。
「駅からここまで、かなり歩いたでしょう。迷いませんでしたか?」
「ええ、一本道でしたので」
「客室がないのですが、構いませんか?」
「はい。ありがとうございます」
深々と頭を下げるスヴェーナ嬢。私は、彼女のボストン・バッグを受け取ると、壁に寄りかかっていた少女に、客人の案内を頼んだ。
「ね、スヴェーナさんは、きょう、と、あした、いっしょなのですね!」
少女は嬉々として私に言い、廊下の突きあたりの扉へと、スヴェーナ嬢の手を引いていった。
その後姿を見送ってから、私は、ひらいたままの玄関扉に向き直る。ドアノブに手をかけ、静かに引きながら、昼食のメニューと、午後の予定について考えた。
午後一時、私たちは昼食の用意を始めた。
メニューは、シーフード・リゾットとミルク。ただし、少女の食べ物は普段通り、白い皿の上に盛られた七色の金平糖だった。
それぞれの食事が、四角形のテーブルに並べられる。私と少女、そしてスヴェーナ嬢は、それぞれの席に着くと、静かにスプーンを動かし始めた。
殺風景なダイニングに、カチャカチャと、食器の立てる微かな音だけが響く。
北の窓から流れ込むのは、微かに潮の香りの混じる、爽やかな海風。
バター風味の帆立貝を一つ飲み込み、私は口を開いた。
「食事が終わったら、街へ買出しに行きます」
それだけ言って、また一さじ、陶磁器の中身をすくう。
「買出しですか」
動かす手は止めないまま、スヴェーナ嬢は淡白に応えた。対して、その右隣に座る少女は、瞳を輝かせる。
「かいだし、ですか!」
嬉しそうに声を上げ、カチャン、と、スプーンをテーブルの上に置いた。天井を仰いで少し考える風を見せた後、指折りながら、普段街で購入している物品の種別を挙げる。
「にちようひんと、たべものと、ほしくず、ですね!」
「はい」
私は、下を向いたまま答えた。
全員が食事を終えたのが一時四十五分。食器を片付け、家を出たのは二時二十分だった。
普段の買出しならば、銀の自転車の荷台に乗せるのは、少女一人だ。しかし今は、少女と、少女を抱きかかえるスヴェーナ嬢との二人を乗せていた。少々、ペダルが重い。
「降りて、歩きましょうか?」
感情の乏しい声が、背中にかかった。
私は振り返らないまま、スヴェーナ嬢に答える。
「いいえ、大丈夫です」
半ば無理矢理に発した言葉は、こころもち掠れていた。私は、向かい風でずれてしまった頭上の黒いソフト帽を、右手で軽く押さえる。
「がんばって、ください!」
明るい激励とともに、少女が右腕を大げさに振り上げ、前方を指差した。示す先には、三叉路。
「もうすぐ、くだりさか、です!」
私が頷く代わりに、自転車が、ガタン、と大きく揺れた。どうやら、小石を踏んだようだ。キャハハ、と、少女が楽しそうに笑う。
間もなく、下り坂に差し掛かった。
同時に、眼下に広がる、マヤの街並み。そして、海の青と空の青。
スヴェーナ嬢の息を呑む音が、微かに聞こえたような気がした。
「きれい、ですね」
口にしたのは、少女のほうだった。
一陣の潮風が、耳をかすめていく。
「そうですね」
スヴェーナ嬢は、薄い溜息混じりに答えた。ガタン、と音を立て、自転車が再び大きく揺れる。
それからしばらくは、誰も何も話さなかった。
ヒューヒューと唸りをあげる風たちが、両耳の仕事を邪魔したためでもある。
やがて、二つ目の三叉路に差し掛かった。
私は慎重にバランスを取りながら、前輪をわずか左へ向ける。車輪は、マヤの中心街へと転がり始めた。
時々ペダルを漕いでは、水平線に視線を移す。一艘の船が、海上を漂っているのが見えた。が、その舟がこちら側の港へ向かうものなのか、それとも、水平線の向こう側へ向かうものなのかは、全く判断がつかなかった。
間もなく、道は小石交じりの白砂から、暗色の石畳に変わった。
午後三時。私たちは、マヤの中心街に入った。
中途半端な時間ということもあり、駅前通りを歩く者は少なかった。しかし、もう二時間ほど経てば、この場所も、駅を出入りする人間で込み合うことだろう。買い物は、早めに済ませることにした。
まずは 「エリツィナの日用品店」 の店先で、自転車を停めた。私は後部座席に回りこみ、スヴェーナ嬢の膝の上に乗っていた少女を持ち上げる。
「にちようひん」
宙に浮いたまま、ぽつん、と、少女が言った。私は彼女を、そっと地面に下ろす。
続いてスヴェーナ嬢が、軽い身のこなしで、ふわりと地面に降り立った。さり気なく手を脇に回して、生地を軽く引っ張り、スカートの皺を伸ばす。その様子を、亜麻色の髪の少女は目を輝かせて眺めていた。
少女から視線を外し、私は店の外壁を見上げる。わざと不規則に積まれた、微妙に色合いの違う茶褐色の煉瓦が目に鮮やかだ。二階部分に見える緑色の窓枠からは、小さな向日葵が顔を覗かせている。
その店で購入したのは、歯ブラシ、チューブタイプの歯磨き、食器洗い用のスポンジ、クレンザー、洗濯洗剤、そして、3冊のノート。用事が済むと、私たちは早々に店を出た。
次に向かうのは、マヤの市場。 「エリツィナの日用品店」 からは、徒歩10分ほどの場所にある。少女を後部座席に乗せ、私とスヴェーナ嬢は、並んで南通りを歩いた。
時折、車輪が段差をまたぎ、前部のバスケットに収まっている紙袋が跳ねる。その都度、少女が楽しそうに足をばたつかせた。
しばらく行くと、連なっていた人家の切れ目から、色とりどりな露店の天幕が顔を覗かせた。同時に、少女は呟く。
「たべもの」
私は黙って自転車を押し続けた。
まだ、夕方までは多少の時間がある。しかし市場では、夕食の買出しにきたのであろう人々が、徐々にその数を増していた。
あらかじめ決めていた食料品を、私はいつもと同じ順番 ―― 豆、木の実と香辛料、調味料、野菜、果物、肉類、魚介類、といった順 ―― で店を回り、買い求める。露店の前で車輪を止める度に、バスケット中の紙袋の数は増えていった。
全てを揃え終えると、私はスヴェーナ嬢に、他に何か食べたいものはないかと尋ねた。スヴェーナ嬢は、静かに首を横に振って返事に代えた。
最後に私たちが向かったのは、市場から更に五分ほど歩いた場所にある小さなスイーツ・ショップ、 「甘い星屑」 だった。砂糖菓子を専門に取り扱っている店だ。
十数歩手前まで近づくと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ほしくず! ほしくず!」
少女が、自転車の後部座席から、はしゃいで声を上げた。
毎週そうしているように、私は店先に自転車を停めた。ショーケースの中には、美しく繊細な砂糖菓子が、規則正しく並べられている。
「そろそろ来ると思ってたよ、人形職人の兄ちゃん」
視線を上げると、カウンターの向こうに馴染みの顔があった。その小太りの中年男性は、両頬にえくぼをつくり、人当たりの良い笑みを浮かべている。彼が、この店の店主だ。
「いつものでいいかい?」
慣れた手つきでスコップと紙袋を手に取りながら、店主は私に尋ねた。
「はい。お願いします」
答えるが早いか、店主は素早く右手を動かし、 「1.00/100g」 と走り書きされたカードの向こうの、小さな砂糖の星屑をスコップですくう。紙袋の中に砂糖菓子を落とすと、ザーッと、潮騒にも似た音がした。
「そっちの繊麗なお嬢さんは、お客さんかい?」
動かす手を緩めつつ、彼はスヴェーナ嬢をちらと見やって、私に目配せをした。私は軽く頷き、ショーケースを眺めながら答える。
「はい。知人のご令孫です」
「兄ちゃんが誰かを連れてくるなんて、初めてじゃないかい?」
「はい」
「この辺じゃ見ない顔だね。お嬢さん、どちらから?」
店主はスコップをカウンターの上に置き、紙袋の口を折りながら、スヴェーナ嬢に視線を移した。私と店主が話している間、ずっと自転車の脇に身じろぎせず立っていたスヴェーナ嬢は、表情一つ変えずに答える。
「イルークスのリュフェーシカです」
「へぇ。そりゃ、ずいぶんと遠いところから来たね」
言って、紙袋をトントンとガラスの上で跳ねさせる。
「リュフェーシカというと、あれだ、大きな噴水のある街だったかな?」
「はい」
スヴェーナ嬢は、こくんと頷いた。
「どうだい、ここは。リュフェーシカから来たんじゃ、だいぶ静かに感じるかい?」
私に紙袋を手渡しながら、店主はスヴェーナ嬢に尋ねる。
「そうですね。いくらか静かに感じます」
スヴェーナ嬢は答えた。その答えに、店主はカラカラと笑う。
「やっぱりそうかい。俺は生まれてこの方、この町から出たこたぁないが、リュフェーシカって言ったら有名な街だからね」
私は内ポケットから黒革の財布を取り出し、金平糖の代金を支払った。
「はい、どうも、毎度ありがとう」
「では、失礼します」
私は帽子を取って軽く一礼すると、自転車へ向き直る。
「あいよ。また来週!」
ストッパーが、ガタン、と音を立てて跳ね上がった。全ての買い物を済ませた私たちは、マヤの中心街を後にした。
帰りは上り坂がきついため、自宅までは徒歩で帰らなければならない。中心街を出てから五十分ほど歩き、ようやく街外れに到着したのは、午後六時を回った頃だった。
ちょうど夕凪の終わる時間だったらしく、涼しい陸風が、面に吹きつけ始める。陽は沈みかけているとは言え、まだ辺りは明るかったが、おそらく、あと30分ほどで日没となるだろう。
私は、無言で自転車を押し続けた。
と、唐突に、スヴェーナ嬢が切り出す。
「名前は、もう決められたのですか」
その不意の質問に、私は思わず、はっと息を呑んだ。スヴェーナ嬢が青の瞳で真っ直ぐ私を見つめ、答えを待っている。
私は前を向いたまま、黙って頭を振った。耳元で、夕風がヒューヒューと鋭い声で抗議をする。
「決められないのですか」
その問いに対して、私は何も答えなかった。否、答えられなかった。
すると、自転車の後部座席に座る少女が、まるで返事を促すかのように呟く。
「なまえ」
私は、小さく溜め息を吐いた。そして、スヴェーナ嬢の顔に、ゆっくりと視線を移す。ここで初めて、黒猫の孫娘を、自分の両眼で見た、ように思った。
僅かに躊躇ってから、それでも、やはり、と、私は思い切って告げる。
「スヴェーナさん、貴女が考えてはくれませんか」
口にしてから、少々哀しい気分になった。
スヴェーナ嬢は、小さく頷いただけで、それ以上、何も言わなかった。
私たちは黙したまま、家まであと15分という地点までの道のりを消化した。既に陽は沈み、月明かりと自転車のライトだけが、足下を照らしている。
三叉路に到着したとき、スヴェーナ嬢は、おもむろに口を開いた。
「名前の件ですが」
私は相づちの代わりに、静かに首を縦に振る。
「フロリーナ (花) というのはいかがでしょう」
至極、一般的な名前だった。私は、思わず口角を上げる。
「ふろりーな!」
いかにも嬉しそうな声が、背中越しに聞こえた。
私たちの足下では、秋の訪れを告げる一輪の白い花が、広がる短草の中、夕風に吹かれて揺れていた。
スヴェーナ嬢が帰ったあとのことを考え、私は、何とも言えない気分になった。
5. 扉と粉雪
この季節になると、ほぼ毎日がそうであるように、空は一面、白い雲で覆われていた。おそらく数分もすれば、街には雪がちらつき始めることだろう。私は空に向けていた視線を前に戻すと、一つ、短く白い息を吐き、再び歩き出した。
右隣には、ぴったりと寄り添う、赤いコートを着た少女。リュフェーシカの駅を出てからずっと、白い兎革の手袋をはめた小さな手で、黒いロング・コートの裾を握り続けている。
時刻は正午前と早かったが、この路地裏に人影はない。
二、三分、歩を進めたところで、私たちは再び立ち止まった。
向かい合ったのは、古びた緑色のドアー。赤いインクで 「閉店中」 と書かれた板切れが下げられている。左斜め上に目を転じると、店名が浮き彫りしてある金属板の取り付けられた、猫の形の黒い看板が目に入った。
「黒猫雑貨店」 。それが、この店の名だ。
三段ほどの小さな石段を上ると、一つ小さく深呼吸をしてから、私はドアノブに手をかけ、回し、押した。
カランカラン、と、涼やかなベルの音が、建物の中に反響する。
私と少女は、そっと、店内に足を踏み入れた。入るなり、木の床が放つ、湿った匂いが私の鼻腔をくすぐる。
灯りがないためか、店の中は薄暗い。ストーブにも、火が入っていなかった。私は小さく息を吐き、周囲を見回す。
「お客さん、申し訳ないが、今は閉店中だよ」
不意に、右手のカウンターから、老女の眠そうな声が聞こえた。私は、振り返る。
カウンターの上に置かれた赤いクッションの上で、一匹の黒猫が、大きなあくびをしていた。
「なんだ、誰かと思えば、人形職人さんかい。久しぶりじゃないか」
言って、黒猫は前足をクッションの外に投げ出し、小さく伸びをする。
「それに、フロリーナも。元気にしていたかい?」
「はい!」
フロリーナは、溢れんばかりの笑みを浮かべて返事をした。その様子に、満足げに頷く黒猫。
「そうかい、そうかい」
尾の先をパタパタと振り、金の瞳を薄く閉じた。
「本当にしばらくぶりだねぇ。半年ぶりだったかね?」
「はい」
フロリーナが私を見上げて微笑み、黒いコートの裾を軽く引っ張りながら、首を縦に振った。
「秋には、スヴェーナがお世話になったね。その節はどうも、本当に助かったよ。あたしも、急な用事だったものだから」
その言葉に対して、私は頭を一つ下げただけで、口に出しての返事はしなかった。しかし、黒猫は特に気にする風もなく、 「急な用事」 の内容について話し始める。
「南の海へ出かけていてね。前の晩に綺麗な満月が出ていたから、 『月の滴』 が流れてくるんじゃないかと思ってねぇ」
「つきのしずく、ですか!」
私が相づちを打つより早く、フロリーナが、驚きと喜びの入り交じった声を上げた。黒猫の話への興味からか、大きな虹色の瞳が、キラキラと輝いている。黒猫は、 「ああ、そうさ」 と、小刻みに二つ、頷いた。
「明るい満月の夜は特に、海の水が月の色に光るだろう? ありゃねぇ、月の表面についてる滴が、海に落っこちているからなのさ」
「それが、ながれて、くるのですか?」
「その通りさ。海岸まで流れ着いた月の滴をぶどう酒の瓶に詰めてね、それをまた、海へ流すのさ。滴を瓶に詰めるのはタイミングが肝心だからね、なかなか難しいんだよ」
黒猫は、得意げに語った。彼女の話に、パチパチと手を叩く少女。
「それは、すてき、ですね!」
いかにも面白かった様子だ。キャッキャと笑い、足踏みまでした。
そして、再度、かみしめるように繰り返す。
「うみの、しずく」
少女が声を発したところで、会話は途切れた。
私と黒猫は、お互い自然とうつむき、視線を反らし合う。私たちが黙り込んでしまったことを不安に思ったのか、フロリーナは落ち着きなく、店内を行ったり来たりし始めた。時折振り返っては、私たちの不安そうに眺める。
その時、私には、いくつか考えるべきことがあったのだ。おそらく、黒猫にしてみても、同じような理由で下を向き、黙していたのだろう。
やがて、しばらく経った後、黒猫が静かに口を開いた。
「人形職人さん、あんたに一つ、頼みがあるんだがね」
黒猫は、顔を上げる。先ほどとは一転、真剣な眼差しが私に向けられた。
「何でしょうか」
私は、あえて尋ねる。
黒猫は、再びうつむいた。しばらく間を置いてから、意を決したように、面を上げる。そして、ゆっくり言葉を続けた。
「スヴェーナのことなんだがねぇ。あの子が、あんたに弟子入りしたいと言っているんだよ」
「はい」
「 …… どうだろう。連れて行ってやってはくれないかね?」
もちろん、私の答えは決まっていた。そのことは、黒猫も、スヴェーナ嬢も、既に理解しているだろう。
「人形職人になりたいのですか」
何の気なしに、私は尋ねた。返事は、店の南側に位置するドアーの奥から返ってくる。
「はい」
たった今開かれたばかりのドアーの向こうには、革製のボストン・バッグを持ったスヴェーナ嬢が立っていた。
「人形職人になりたいのです」
フロリーナが、はたと動きを止める。そして、不思議そうにスヴェーナ嬢を見上げた。
「なぜ、ですか?」
率直な問いに、少し考える風を見せるスヴェーナ嬢。しかし、答えが返るまでに、それほど時間はかからなかった。
「人形が作れるようになりたいからです」
スヴェーナ嬢は、青の瞳で真っ直ぐにフロリーナを見つめる。その眼差しには、一片の曇りもない。
「そうですか」
私は、小さく息を吐いた。そして、フロリーナに手を差し出し、これからまた、歩き出すことを無言で告げる。
そして、スヴェーナ嬢に向き直った。
「では、行きましょうか」
今度は、彼女に向けて言う。
「何か、置き忘れてしまったものはありませんか」
「ありません」
静かに頭を振る少女。私は、少々申し訳ない気持ちになった。
優しげな眼差しで、黒猫が私たちを見つめている。
「頑張っておいで」
黒猫は金の目を細め、スヴェーナ嬢に言った。否、それは、私に向けられた言葉だったのかもしれない。とにかくに、スヴェーナ嬢と私は、同時に頷いた。
「では、私たちはこれで失礼します」
感謝の気持ちを込めて一礼すると、私は踝を返した。後には、フロリーナが、そして、スヴェーナ嬢が続く。
ドアノブを静かに回し、引くと、カランカラン、と、涼やかな音がした。
先にフロリーナを通し、扉を押さえていた私の手を、スヴェーナ嬢の白く細い手のひらと替える。スヴェーナ嬢の手がドアーを捉えたことを確認すると、私は静かに手を離し、石段に足を踏み出した。
スヴェーナ嬢は、ほんの少しだけ、後ろを振り返る。
そして、ぽつり、と呟いた。
「さようなら」
ひさしの下から出ると同時に、フロリーナの髪に、真っ白い粉雪がふわりと舞い降りる。
「ゆき」
私は、コートの内ポケットから小さな赤い毛糸の帽子を取りだし、フロリーナの頭にかぶせた。フロリーナは、眩しいほどの笑顔を私に向け、空を指さす。
「ゆき、きれい、ですね」
後ろで、スヴェーナ嬢が、静かに店の扉を閉めた。
第二幕
幻想夜想曲
1. 満月の涙
シルバー・ブロンドの長髪を軽く梳くと、私は手にしていた木製のブラシを、そっと洗面台の上へ置いた。時刻は、九時ちょうど。
「おやすみなさい」
私は、鏡の向こうの青い瞳の少女に向かって小さく呟き、バス・ルームの灯りを消した。
ドアーを開くと、ギィ、と古めかしい音がする。廊下に灯りはなかったけれど、月明かりに照らされていたので、恐怖は全く感じなかった。
バス・ルームを出て、今度は左脇にあるドアーを開き、ダイニング・キッチンへ入る。この部屋も、廊下同様、薄青色の光で満ちていた。
リュフェーシカと比べたら、マヤでの夜はかなり静かなものになると思っていた。しかし、どうやら、その予想は外れたようだ。今、この家を撫でている陸風の口笛は、おそらく毎夜聞かれるものなのだろう。
北の窓のカーテンをそっと開け、外を覗き見る。そこには、銀細工のようにキラキラと輝く紺の海が、一面に広がっていた。
しばらくその光景に見入ってから、私は静かにカーテンを閉じた。
ダイニングから西の廊下に出ると、向かいが書斎のドアー、右斜め前が寝室のドアー。どちらも閉まっていたが、寝室のほうは、わずかな隙間から細く灯りが漏れていた。
金色の丸いドアノブに手をかけ、寝室のドアーを開く。こちらのドアーは、押しても音を立てない。私は、静かに寝室へ入った。
右手を見れば、親方とフロリーナは、既にベッドの中だった。気配に気付いたのか、フロリーナは半身を起こして私のほうを見ている。
「スヴェーナ!」
ナイト・テーブル上のランプの、やさしいオレンジの灯に、虹色の瞳が煌めく。
「こんやも、おはなしを、きかせて、いただきたい、です!」
「分かりました」
私はベッドに腰掛け、上履きを脱いだ。上掛けの中に潜り込むと、同時に、フロリーナも枕に頭を沈める。
私がこの家に来たのは、一週間前のこと。その日の夜からずっと思っていることではあるけれど、セミ・ダブルのベッドに3人では、少々狭い。
「ねえ、きょうは、どんなおはなし、ですか?」
「そうですね」
知っている話を思い出しながら、私は横目で親方を見た。上を向き、まぶたを閉じていたが、まだ眠ってはいないようだった。親方が眠っているか否かは、寝息のあるなしで判定できるということを、昨日、フロリーナからこっそり教わったのだ。
もしかすると親方は、狸寝入りをしているのかもしれない。
「では、今夜は 『満月の涙』 のお話をします」
「まんげつのなみだ、ですか!」
フロリーナは、その大きな瞳を私に向けた。
「ええ」
私は、ありきたりなプロローグを紡ぐ。
「ある街に、一人の女性が住んでいました」
ある街に、一人の女性が住んでいた。
私と同じ、シルバー・ブロンドの髪と、ディープ・ブルーの瞳を持つ、年の頃十八、九の、細身な女性だ。彼女はその街で、小さな雑貨店を営んでいた。
今から、六十年ほど前の話である。
彼女は、慌てて駅へと向かっていた。家を出るのが、予定していた時刻より少々遅くなってしまったためだ。美しい満月の浮かぶ、夏の夜だった。その手には、革製のボストン・バッグが一つ。中には、財布と、膝掛けが一枚と、枕、水筒が一つ、そして、緑色のガラス瓶が一本、詰め込んである。
走りに走って、ようやく駅の改札までたどり着いた彼女は、手にしていたボストン・バッグを、ドサッ、と石畳の上に置いた。
「マヤまで、一枚」
肩で息をしながら、声を絞り出し、三枚の銀貨をカウンターの上に置く。ガラスの向こうの駅員が、疲れ気味な様子で、無表情に一枚の切符を差し出した。
彼女は切符を受け取ると、拾い上げるようにボストン・バッグを持ち、慌てて汽車に乗り込んだ。同時に、背後でドアーが閉まる。まさに、間一髪だった。
一息ついて周囲を見回すと、その車両には、彼女の他、誰もいないようだった。出発の揺れが収まってから車内を移動し、彼女は長い椅子の真ん中に腰を下ろす。
目的地であるマヤに到着したのは、それから、およそ一時間後。
ホームへ降り立つと、彼女はまず、腕を大きく天へ伸ばし、深呼吸した。潮の香りが胸に染み渡る。
スカートのポケットに入った懐中時計を見れば、時刻は九時ちょうど。理想的な時刻だ。彼女はマヤの駅を後にすると、迷うことなく、東側の海岸へ向かった。
真夏の夜は蒸していたが、絶えず陸風が吹きつけてくるため、それほど暑さは感じない。むしろ、涼しいくらいだった。一定の律動を刻む波の音も、体感温度を下げる手助けをしているのだろう。
彼女は中央通りを北へ下り、中央桟橋の前 ―― 東西に延びる海岸通りに出ると、右折し、煉瓦敷きの道を真っ直ぐ歩いた。右手には、所狭しと倉庫や工場、商店などが建ち並んでいる。しかし、この時間でも灯りのついている建物は、ほんの少数だった。
駅を発ってから、四十五分ほど経った頃。ようやく、整備された道が途切れた。中央桟橋付近では多かった建物の数も、今や、遠くに点在している程度。
眼前の土手の下には、キラキラと輝く白い砂浜が広がっている。
十数段の石段を下り終えると、急に足場が悪くなった。彼女は砂に足を取られないよう注意して、慎重に二歩目を踏み出す。
不意に、突風が襲った。
巻き上がり、吹き付ける銀砂。左腕で目を庇いながら、彼女はよろよろと歩く。
数歩行ったところで、風は、はたと止んだ。どうやら、階段の下が吹きだまりになっていたらしい。彼女は思わず、ふう、と息をついた。
海岸沿いを、更に五分ほど歩く。そこで、彼女はふと立ち止まり、茶色い革製のブーツを、そして靴下を脱いだ。
昼の太陽の余熱でか、砂がわずかに暖かい。その感触は、足の裏に心地よかった。
ブーツを手に、彼女は再び歩を進める。時刻は、十時を回っていた。
右手には、緑の丘と満月、左手には、青白く光る海面。どちらにも、自分以外の人の姿はない。
午後、十時四十五分。
彼女は、ようやく目的の場所へ到着した。
既に分かってはいたが、再度、周囲に誰もいないことを確認する。そして、手にしていたボストン・バッグを、そっと砂の上へ置いた。
鼓動が高鳴るのを感じつつ、彼女は慎重にファスナーを開き、中を探る。取り出したのは、コルク栓のされた、空のガラス瓶。
ひんやりと冷たいその瓶を、彼女は両手で静かに回しながら、眺める。その手つきは、まるで繊細な飴細工を扱うかのようだった。
ポンッ、と、小気味のよい音を立てて、コルク栓が抜ける。ほんのり漂う、ぶどう酒の香り。彼女は真面目な表情で、後ろを振り返った。
月に、雲はかかっていない。今が絶好の機会だ。
手早くスカートの裾をたくし込むと、彼女は波打ち際へ走り寄り、浅瀬に足を漬ける。直後、ワイン瓶の口を、海面の光る部分に浸した。すると、月の輝きが、見る間に緑色の瓶の中へと流れ込んでくる。
銀の光を六分目まで詰めたところで、彼女は瓶を引き上げ、しっかりと栓をした。
回れ右をし、足早に陸へ戻る。
立ち止まって、一 ―― 二 ―― 三 ―― 四 ―― 五。逸る気持ちを抑えるため、ゆっくりと心の中で数える。更に、深呼吸をしてから、彼女は思い切って、瓶を顔の高さまで持ち上げた。
月明かりに透かされて、同じ銀色の液体が、変わらず輝いている。
成功だった。
思わず、その場でステップを踏み、声をあげて笑った。
その液体は 「月の滴」 という。月の表面についた滴が、海へ滴り落ちたものだ。特に、この日彼女が集めた月の滴は、真夏の晴れた満月の夜、北の海岸にしか流れ着かない上、採取が極めて難しいという、とても珍しいものだった。
それもそのはず、これは 「満月の涙」 なのだから。満月は、滅多に涙を流さない。
彼女は満月の涙を採取するために、一昨年から、年に一度、毎回ここへ通っていたのだ。
そして、三年目の今日、念願叶って、ようやく望みのものを採取できたのだった。小躍りするのも無理はない。
少し気持ちが落ち着いてくると、彼女はワイン瓶に、軽く口づけをした。そして、もう一度、感慨深くそれを眺める。
次の瞬間、彼女は右手を大きく振りかぶって、手にしていたワイン瓶を、海に向かって勢いよく放り投げた。
緩やかに弧を描く、銀の光。
瓶は、パシャン、と音を立てて着水した。周囲で弾けた水しぶきも、中身と同じ、銀色だった。
しばらく、その場で浮きつ沈みつを繰り返した後、緑色の瓶は、波の動きに合わせ、徐々に沖へ向かって流され始めた。
流した瓶が戻ってこないことを確認すると、彼女は、柔らかく微笑む。
「良い航海を」
それから彼女は南へ歩き、砂浜を後にした。草地に入ると、足に付着した砂を払い、靴下、そして茶色い革製のブーツをはく。
二十分ほど行った辺りで、丘の上の適当な場所を見繕い、持ってきた枕をそこに置いた。仰向けに寝転がり、膝掛けを上掛け代わりにする。
満天の星空だった。
動き回った疲れが出てか、眠気はすぐに訪れた。鈴虫の音色を子守歌に、ゆっくりと瞼を閉じる。彼女は、そのまま、吸い込まれるように眠りについた。
そして、翌朝。
「彼女は、寝坊してしまいました」
「ねぼう、ですか」
きょとん、とするフロリーナ。
「はい」
私は、小さく頷いた。
「でんしゃ、は、だいじょうぶ、だったのですか?」
「はい。彼女が慌てて西へと向かっている途中、横切った草原の中の一本道に、なぜか一台の銀色の自転車が置かれてあったのです。彼女はそれを拝借し、丘の上を、線路沿いにひたすら西へと向かいました。間一髪でしたが、何とか始発に間に合いました」
「だれかが、しんせつだった、のですね!」
そう、フロリーナは瞳を輝かせて言う。私は、思わず吹き出してしまった。
「そうですね」
親方の寝息が聞こえてきたのは、それから、およそ五分が経った後だった。
2. 黒い外套
寒い冬の朝だった。窓の外に見える空は、重そうな白色。ちらちらと舞う雪が、今はきつね色となった庭の芝の上に、まだら模様を作り始めていた。
これから、吹雪くのかもしれない。私はそう思い、店の窓の雨戸を閉めようと立ち上がった。
暖かい暖炉の前を離れ、廊下を抜けて、店内へ出る。薄暗い室内には、木の香りと、微かな灯油の香りが漂っていた。
金メッキのなされたドアノブに手をかけ、玄関のドアーをゆっくりと開く。カランカラン、と、涼やかにベルが鳴った。途端、全身を撫でる、ひんやりとした空気。私は、思わず身震いした。
両の手をもみながら、三段の石段を静かに降り、足下に注意して、石畳の小道へ一歩を踏み出す。天を仰ぐと、ひとひらの雪が鼻の頂にふわりと落ち、溶けて消えた。冷たい。
ふと、私は、何かの気配を感じ、寒さのために凍りかけている首を、ぎこちない動作で右へ回した。頭に、錆びた歯車が動き出すような音が響く。
まず、私の目に飛び込んできたのは、漆黒の一塊。それが、一人の男性であるということに気付いたのは、三秒の後だった。
黒のソフト帽、黒の頭髪、黒のロング・コート、その下から覗く黒のトラウザース、黒のソックス、そして、黒の革靴。足下に置かれた、黒のアタッシュ・ケース。一見すると、いかにも怪しげな出で立ちだ。しかし、彼の醸し出す雰囲気から、危険さは微塵も感じられなかった。
その男性は私の店の外壁に寄りかかり、気持ち背中を丸め、寒そうに両の手へ息を吹きかけている。革製の黒い手袋をはめている上からだったので、効果がないのでは、と思いはしたが、私は黙って見ていた。
男性の立っている場所が、ちょうど窓のすぐ横だったので、彼に声をかけずしては目的を果たせそうにない。
暫時、その場に立ったままでいると、やがて男性は私のほうを向いた。ようやく気付いたようだ。
彼は穏やかに微笑み、帽子をとって軽く会釈した。
「おはようございます。いい天気ですね」
いい天気。果たしてそうだろうか、と、私は少し考える。
確かに、いい天気だ。
そう思い、会釈を返す。
「ええ、本当に」
その返事を聞き、男性は小さく頷くと、空を見上げた。私も、瞳を雲に向ける。降る雪の量は、外に出てすぐの時よりも、ずっと多くなっていた。
「こちらのお店は、貴女が一人で切り盛りされているのですか」
そう言って、男性 ―― 否、青年と言ったほうがいいのかもしれない。彼は、 「黒猫雑貨店」 と浮き彫りされた金属板が取り付けてある、猫の形の黒い看板板を指さした。
私はぎこちなく頷くと、動きの鈍くなった唇を開く。
「ええ、そうです」
言葉と一緒に、ゆらゆらと白い蒸気が踊った。
「そうですか」
青年はそう言って軽く笑い、再び空を仰ぐ。
「これから、吹雪きますね」
「ええ」
マグカップに一杯の、甘いココアが欲しい。
一陣のつむじ風が、粉雪と、私のシルバー・ブロンドの後ろ髪とを、ふわり、と巻き上げていった。
「それでは、お邪魔しました」
一つ頭を下げ、青年は踵を返す。その背中に、私も一礼した。
「いいえ」
青年は去り際、軽く帽子をかぶり直し、 「また伺います」 と、呟くように言い残していった。
人気のない路地裏に、雪が、静かに積もる。
私は手早く雨戸を閉め、足早に暖炉へと向かった。
3. 透明な青
リュフェーシカの中央広場に位置する時計台では、正午になると、決まって十二回、鐘が鳴る。その、三つの音からなる澄んだ音色は、今日も例外なく、私の小さな雑貨店まで届けられた。
半年ほど前から、毎週日曜日、この時間の習慣になっていることがある。
私は、透明な小袋に七色のクリップを詰める作業を中断し、カウンターの席を立った。店の奥のドアーを開け、廊下に出る。左手、二つ目のドアーが、ダイニング・キッチンのものだ。
私は部屋へ入ると、真っ直ぐにキッチン・カウンターへ向かった。
ケトルを取り、半分まで水を入れてコンロにかける。きちんと火がついたのを確認してから、今度は食器棚の中段より、コーヒー・ミルを引き出した。
戸棚から麻袋を取り出し、その中に入ったコーヒー豆を、スコップに一すくい、カバーを開けたミルの中へ。再度カバーを閉め、中挽きに設定してから、ゆっくりとハンドルを回した。
豆を挽き終えたら、ネルをドリッパーにかけ、サーバーの上へ置く。スプーンに五杯、コーヒー・ミルの引き出しに収まったコーヒー粉をすくって、ドリッパーの中心へ落とした。
コーヒー粉が湿る程度、ドリッパーに湯を注ぎ、待つこと三十秒。続いて、今度はドリッパーの中程まで湯を注いで、その位置に液面を保持しながら、一杯分のコーヒーをサーバーに落とす。
仕上げに、食器棚から真っ白なコーヒー・カップを下ろし、そっとコーヒーを注いだ。湯気に混じる芳しい香りが、鼻腔をくすぐる。
カップの載ったソーサーを手にすると、同時に、店のドア・ベルが、カランカラン、と涼やかな音を立てた。
「こんにちは」
廊下の奥から、男性の声が聞こえる。私はカップを手に、慌てず店へと向かった。
自宅部分と店舗部分とを隔てるドアーを開けた瞬間、一人の客と目が合う。相手は、上から下まで黒を身にまとった青年だ。真夏だというのに長袖を着て、しかも、汗一つかいていない。彼は先週と同じ格好で、先週と同じように、穏やかな笑顔を浮かべて立っていた。
私たちは、お互いに会釈する。
「いらっしゃいませ」
言って、私はカウンターの上へカップを置いた。足下から丸椅子を引き出し、その席を青年に勧める。
「どうぞ、おかけください」
「ありがとうございます」
青年は帽子に手をやって、軽く頭を下げた。椅子に腰掛け、カップを手に取り、いれたてのコーヒーを一口すする。その手順も、先週とほとんど変わらない。
「今日は、何をご所望ですか」
私が問うと、青年はコーヒー・カップを、そっとソーサーに戻した。
「 『満月の涙』 をいただきたいのですが」
私は、思わず聞き返す。
「 『満月の涙』 …… ですか」
「はい」
笑顔を崩さないまま、青年は頷いた。
このように、彼は毎週この店へ来る度に、難しい品を注文するのだ。それも、金銭で売れないような物ばかりを。それでも、彼の所望する品を出せなかったことは、まだ一度もない。
「置いてありますか」
「ええ、結晶なら」
静かに席を立ち、私はカウンター正面の棚へ向かった。左から三番目の引き出しを引く。中に入っているのは、磨かれた水晶のように透明な、青いストケシアの細工物。
私はそれを丁寧に持ち上げ、黒いコートの青年のもとへと持って行った。
「こちらです」
私の掌ほどの大きさの、透明な花を手渡す。青年は、渡されたストケシアをまじまじと見つめた。
「これは、貴女のですか」
「ええ」
頷く私に、青年は不思議そうな表情を向ける。
「なぜ、花なのですか」
その、あまりに率直な問いに、私は思わず失笑しそうになった。やっと平静を装って答える。
「滴の流れ着いた先が、庭の花壇のストケシアのつぼみだったからです」
「なるほど、そういうことでしたか」
青年は、軽く笑った。そして、再び花に目をやる。
「初めて見ますが、本当に綺麗な青ですね。満月の涙の結晶は、どれもこのような色をしているのですか」
「いいえ、色も形も、決まってはいないようです」
「そうですか」
短く応えて、青年は、ふと黙り込んだ。何か、考え事をしているのかもしれない。
私は、何気なく窓の外へ目を向けた。ガラスの向こうを、はす向かいの家に住む白い猫が、すまし顔で横切っていった。
前の通りは日当たりが悪いため、大通りよりはいくらか涼しいものの、真夏の暑さは、石畳の上にかげろうを踊らせている。
今日は、かなり気温が高いのだろう。
「ああ、そうか」
突然、青年が言葉を発した。
私は、慌てて正面を向く。青年は顎に手を当て、どこか遠くの一点を見つめていた。そして、その状態のまま、独り言のように二の句を継ぐ。
「瞳の色と同じなんだ」
一言、真剣な表情で呟いた青年。私は思わず、声を上げて笑ってしまった。
それからしばらくして、青年はカップのコーヒーを飲み干し、次の汽車に間に合うよう、先週と同じ時刻に店を発った。
品物の代金が 「付け」 となったことも、先週と全く変わりはなかった。
ただ、一つ違ったのは、青年が去り際、 「お邪魔しました」 に加えて、こう言い残していった点だった。
「 『追想』 。ストケシアの花言葉です」
4. 窓と燭台
この家の南側に位置する、ダイニング・キッチン。その中心に据えられたテーブルの、深紅のクロスの上に、金色の燭台が載っている。緩やかな波模様の装飾が施された燭台の先端で、赤い炎がゆらゆらと揺れていた。
オレンジの灯りに照らし出される半透明な窓の外には、絶え間なく舞う、白い雪。私はそっとガラスに触れ、小さな星を描く。
夕食の準備は、既に整っていた。向かい合わせに据えられた二脚の椅子と、テーブル上にきちんと並べられた、二人分の食事。卒がないか、振り返ってもう一度確認する。
ワイン、オードブル、スープ、若鶏のロースト、パン、サラダ、そして、デザートのババロア、作り忘れはない。私は、ふう、と息を吐くと、廊下へ続く扉に目を向けた。
時刻は、午後五時四十七分。
カランカラン、と、店の玄関のドア・ベルが鳴った。
「こんばんは」
廊下の奥から、青年の声が聞こえる。
耳に届いた挨拶がいつもと違っていたことも、私が用意したのがコーヒーではなく一人分の食事だったことも、単に、マヤ - リュフェーシカ間の電車が遅れたという、それだけの理由からだ。
窓際を離れ、燭台を手に取ると、私は廊下へ出た。吐く息が白い。キシキシと鳴る木製の床の上を真っ直ぐ進み、店舗部分と繋がるドアーを開く。
目の前に立つ青年は、黒で統一された衣服、穏やかな表情、ともに、先週とほとんど変わりがなかった。ただ、あえて違う点を挙げるならば、黒いソフト帽の上や、黒いロング・コートの肩に、うっすらと白のまだら模様が描かれている。
「こんばんは」
私は、軽く会釈をした。青年も、微笑んで帽子を取り、頭を下げる。ただ、寒さのためか、その笑顔はどこかぎこちなかった。
「今日も、冷えますね」
言いながら、青年は黒い手袋をはめた両の手を揉む。
「ええ、本当に」
私は頷き、燭台をカウンターの上に置いた。
今、店内のストーブには火が入っていない。とうに閉店時間を過ぎているためだ。そのことを知ってか否か、青年は穏やかに笑ったまま、言う。
「すみませんが、暖を取らせてはいただけないでしょうか」
「ええ、奥の部屋の暖炉でよろしければ」
「それはありがたい」
青年は、心底嬉しそうに笑った。そして、私の出した次の誘いも、二つ返事で受けたのだった。
「もしご都合のいいようでしたら、ちょうど夕食ができたところなので、ご一緒しませんか」
外は雪で、ダイニング・キッチンの中は、しんと静まりかえっていた。
その中に、食器の立てるカチャカチャという音だけが、ひときわ高く響く。
食卓の上で沈黙が踊っていたさなか、不意に、青年が口を開いた。
「ここにも、雪は降るのですね」
呟くように言った青年の目は、窓の外へ向けられている。私は、ロースト・チキンの皿に視線を落とした。
「ええ、雪は好きですから」
右手を動かし、チキンを切る。青年は、くすりと笑った。
「いい所ですね、ここも」
「そうですか」
「はい」
私は、切り終えたチキンを口に運ぶ。
「色がありますね」
青年の言葉に、私は思わず、口の中のものを慌てて飲み込んだ。今は手袋をしていない彼の両手の甲には、確かに、シルフィアイの紋章が紅く刻まれている。
ナイフとフォークを皿の上へ置くと、ナプキンで口元をぬぐい、マナー違反とは分かってはいたけれど、私は席を立って、ゆっくりと窓際へ歩み寄った。
半透明な窓ガラスに、小さな窓を描く。その窓を通して、鮮明に見える外の景色。
「もうじき、庭の花壇ではスノー・ドロップが咲きます。ですが、今は雪が降っているだけです」
それは、半ば弁明に近かった。
「しかし、その窓には、燭台の灯が映っているでしょう」
穏やかな笑みを浮かべながらも、少し寂しげに、青年は言う。
「オレンジ色の灯が、三つ」
ふと、会話が途切れた。
食器の音さえも消えた部屋は、ひたすらに静かだ。
私は斜め上を向くと、視界に天井の照明を捉えた。そして、そっと瞼を閉じ、開く。
「外は、雪ですよ」
そう呟き、私は席に戻ると、再びナイフとフォークを手に取った。
しんしんと降り続ける雪は、全く止む気配を見せない。
5. 遠き約束
昨晩まで降り続いていた雪は、見事に止んでいた。窓枠に切り取られた空は、澄んだブルー。私はゆっくりと体を起こし、ベッドの上に座る。
吐く息は白い。早朝の寒さが、身に染みるようだった。思わず身震いし、枕元にたたんであったカーディガンを取って、ナイト・ウェアの上に羽織る。
窓の外は一面の銀景色。庭の花壇も、その間を走る小道も、そのずっと向こうの原っぱも、林も。朝日を浴びて、全てがキラキラと輝いている。
私は小さく伸びをすると、ベッドから降りた。
ベッド・ルームを後にし、ダイニング・キッチンの扉を開く。部屋は、しん、と静まりかえっていた。耳が冷たい。私は、冷えかけた両の手を揉んだ。
食器棚の引き出しからマッチ箱を取り出して、暖炉に火を入れる。しばらくの間をおいて、火は勢いよく燃え始めた。
続いて、シンクに歩み寄ると、小鍋をコンロにかけ、ミルクを注ぐ。熱いココアをいれるためだ。
湯を沸かしている間に、私は慌ててベッド・ルームへ戻り、普段着に着替えた。今日の服装は、ブルー系のタータン・チェックのロングスカートに、フリルのついた白いブラウス。肩にかけた毛織物のショールは、若草色。
上履きを、茶色のロング・ブーツにはきかえ、次は洗面所へ向かう。顔を洗い、台の上に置かれたブラシを取って、シルバー・ブロンドの髪を軽く梳いた。
ダイニング・キッチンへ戻ると、鍋の中には、適度に温まったミルクが。ココア・パウダーを取り出し、ミルクを少量加えて練りながら、私は窓の外に目を向けた。
時刻は、七時十五分。
パウダーを練り終えたところで、マグカップ八分目まで、熱いミルクを注ぐ。ティー・スプーンでくるくるとかき混ぜれば、ふわっと立ち上る湯気。香りが甘い。私はカップに口をつけ、できあがったココアを、そっと一口すする。
不意に、カランカラン、と、涼やかな音でドア・ベルが呼んだ。
私はカップをテーブルの上に置くと、足早に店舗部分へ向かう。
陳列棚の並んだその部屋に着いてみれば、玄関のドアーはまだ開かれていなかった。
私はドアノブに手をかけ、静かに引く。
「おはようございます」
扉の向こうに立っていたのは、見知った青年。彼は朝の挨拶を述べ、帽子を取って軽く会釈した。
路地の奥から、青年の立っている場所まで、石畳をすっかり覆っている雪の上に、点々と足跡がついている。
挨拶を返そうとして口を開いた瞬間、ふっ、と、白いもやが私の頬を撫でて流れた。
「おはようございます。今日はまた、ずいぶんと早いのですね」
「はい。これから、行きたいところがありますので」
青年は、いつになく楽しそうに微笑んでいる。
「ただ、その前に、ぜひいただきたいものがあるのです」
彼の様子からして、また何か風変わりな注文が飛び出すであろうことは、容易に想像できた。しかし、毎回のことだったので、むしろ興味をひかれ、私は尋ねる。
「何ですか」
答えは、意外なものだった。
「 『虹の破片』 です」
その言葉に、私は、まじまじと青年の顔を見つめてしまった。
「 『虹の破片』 …… ですか」
「はい」
青年は頷く。
「置いてありますか」
「いいえ」
私は即答し、首を横に振った。
「申し訳ありませんが、虹の破片はまだ拾ったことがないのです」
「そうですか」
青年は、少し残念そうに笑う。
「人形の瞳に使いたいと思ったのですが」
「人形の瞳に虹の破片を使うと、何かあるのですか」
何故、と思った時には、既に質問をしていた。私にしては、とても珍しいことだ。今日は、何か特別な日なのかもしれない。
私の問いかけに気をよくしたのか、青年は嬉しそうに語る。
「私も今まで思いつかなかったのですが、虹はたくさんの色からできているでしょう。その破片を瞳に使ったら、あるいは、色のある世界が見えるのではないか、と考えたのですよ」
確かに、と、思った。そして同時に、この店に虹の破片が置いてあればよかったのに、とも。
「では」
言って、私は小首を傾げる。
「次にお客様がお見えになる時までに、十分な大きさの 『虹の破片』 を用意しておく、というのはいかがでしょう」
そう伝えた時の私は、微笑んでいたかもしれない。
青年は、突然、黒い革手袋をした両手で私の右の手を取り、ぎゅっと握った。
「はい、ぜひ、お願いします」
まるで、子供のように輝く瞳。
「私も、次に伺うときには 『ツケ』 ていただいていた分の何かを用意してきます」
私は、思わず失笑する。
「ええ、ぜひ、お願いします」
軽く頷いて言った私の言葉に、青年は、いつもの穏やかな笑みで答えた。そして、そっと手を離し、おもむろに踵を返す。
去り際、軽く帽子をかぶり直して、 「また伺います」 と、呟くように言い残していった。
サクサクと雪を踏み、路地裏の奥へと消えゆく青年の背中に向かって、私は、至極小さな声で呟く。
「頑張っておいで」
第三幕
追憶夢見草
1. 憂鬱な日
ベージュのカーテンを左右に分け、それぞれタッセルで束ねると、私は静かに窓を開いた。さあ、と頬を撫でる、ひんやりとした潮風。
朝の気分に似つかわしくなく、空はどんよりと曇っている。
「いい天気ですね」
サニーサイドエッグとアスパラガスが仲良くジュージューと音を立てているフライパンを手に、親方は言った。
その目は、パンの底に向けられたまま。窓の向こうなど、全く見ていない。
私は小さく溜め息を吐くと、窓の側を離れた。
踵を返して、三人で使うにしては少々大きめのテーブルに向き合う。上には、ランチョン・マットが三人分、ナイフとフォークが二人分、ティー・スプーンが一人分。中央には、バスケットに盛られた数個のクロワッサン。ここに、二人分のサイド・ディッシュとホットミルク、そして一人分のカップ入り金平糖が加われば、朝食の準備は万全だ。
私は静かに椅子を引き、席に着いた。
同時に、ギィ、と西側のドアーが開く。
「おはようございます!」
明るい声を上げてダイニング・キッチンへ入ってきたのは、赤いエプロン・ドレスに身を包んだ少女 ―― フロリーナだった。
私と親方の声が重なる。
「おはようございます」
「おはようございます」
「きょう、も、いいてんき、ですね」
ちらと窓を見た後、フロリーナは満面の笑顔で言った。それに答える親方。
「そうですね」
肯定の返事だった。しかし、視線は相変わらず、フライパンの底に注がれている。
それでも、少女を喜ばせるには十分な返答だったようだ。嬉しそうに親方に向かい、フロリーナは大きく頷いた。
私は腰を上げ、パタパタ音を立てて走り寄ってきたフロリーナを抱き上げる。羽根のように軽い。亜麻色の髪が、ふわり、と私の鼻をくすぐった。
そっと椅子の上に降ろすと、フロリーナは、きらきら光る虹色の瞳で私を見上げる。
「スヴェーナさん、ありがとう、ございます!」
「どういたしまして」
私は微笑み返した。
そうこうしているうちに、卵が焼けたようだ。アスパラガスとサニーサイドエッグの載った白いプレートを左手に二つ、ホットミルクの入ったマグカップ二個と、金平糖の沈んだティーカップ一個を右手に持ち、親方がテーブルへ向かってくる。いつものことながら見事なもので、かなり無理のある行動ながら、危なっかしさは微塵もない。
それぞれの席に、決まった食事を手際よく置き並べる。仕上がった食卓を一度見渡してから、親方は席に着いた。
これで、この家の住人全員が、ダイニング・テーブルに揃ったことになる。
「いただきます」
「いただきます」
「いただきます!」
同時にそう述べると、私たちは一斉に食事を始めた。
まずはアスパラガスに手をつけ、熱いミルクを一口すする。ちらと前を見ると、親方も全く同じ動作をしていた。
クロワッサンを一つ食べ終えた後で、私はいつも通り、親方に尋ねる。
「今日のご予定は」
そして、答えの予想を始めた。
今日が休日であることを考慮すれば、予定は、洋服や雑貨、仕事の道具や材料を買いに町へ出るか、海岸まで昼寝をしに行くか、家で各々勝手に過ごすかの、いずれか一つであると思われる。
ただし、外は今にも雨が降り出しそうな曇り空だ。親方の返事は、おそらく、 「特にありません」 だろう。
ところが、実際はこうだった。
「今日は、教会へ行きます」
それだけ言って、マグカップへ手を伸ばす親方。私は、思わず唖然としてしまった。
親方の漕ぐ銀色の自転車の荷台で、揺られること三十分あまり。私たちは、マヤの駅に到着した。
家を出てからというもの、フロリーナは始終、 「きょうかい、きょうかい」 と小さく歌い続けている。
発つ前、彼女に尋ねたところ、教会へ行くのは初めてなのだそうだ。だとすれば、親方が前回教会へ足を運んだのは、少なくとも一年前ということになる。
切符を買い、汽車に乗り込むと、私たちは空いている場所に座った。もっとも、今日が火曜日だからなのか、どの車両も空席ばかりではあったのだけれど。
席についてからしばらく経った後、重厚な汽笛の音と共に汽車が動き出した。
一呼吸置いて、私は口を開く。今度こそ、返答の予想はついていた。
「信徒でいらしたのですか」
案の定、親方は無表情で答える。
「いいえ」
ならばなぜ、とは聞かなかった。おそらく親方は、単にリュフェーシカへ行きたいだけなのだろう。
私は、小さく溜め息を吐いた。
「スヴェーナ、げんきが、ない、のですか?」
そう、心配そうな様子で私の顔をのぞき込んだのはフロリーナ。私は頭を振り、少しだけ微笑んで見せる。
「いいえ」
否定の返事に、フロリーナの表情がぱっと変わった。
「げんきなら、よかった、です!」
一つ頷いて前へ向き直ると、再び小声で歌い出す。
「きょうかい、きょうかい」
とても楽しそうだ。
対して親方は、相変わらず無表情のまま、向かい側の窓の外を眺めている。流れ行く外の景色が面白いのかもしれない。
私も、車窓から見える風景を楽しんで、一時間をやり過ごすことに決めた。
いつの間にか、眠っていたようだ。親方に起こされたときには、既にリュフェーシカに到着していた。
黒いコートの生地の様子から察するに、どうやら、私はかなりの間、親方の左腕を枕代わりにしていたらしい。しかし、そのことに関して、親方は何も言わなかった。
駅舎を後にし、親方がフロリーナを背負うと、私たちは人の合間を縫って、真っ直ぐに教会へと向かう。
フロリーナは、また歌を口ずさみ始めた。
噴水広場へと続く大通りには、見覚えのある光景が広がっている。
リュフェーシカの地を踏んだのは実に三ヶ月ぶりであったけれど、それほど懐かしさは感じなかった。親方の家の静けさに慣れてしまったせいかもしれない。
噴水広場に出たら、今度は北の大通りに入る。リュフェーシカの教会堂は、この道を真っ直ぐ四十分ほど歩いたところに建っていたはずだ。
広場の北にあるクレープ・ショップを通り過ぎてから、およそ二十分が経った頃。右手に、 「カバラフ精肉店」 が現れた。
ふと、立ち止まる親方。
私も立ち止まった。
前を向いたまま、親方は言う。
「このまま、真っ直ぐ行きますよ」
今、この瞬間、彼は少しだけ微笑んでいるかもしれない。
この場所で、そう宣言する、たったそれだけのために、高い乗車賃を払ってリュフェーシカまで来たのだとしたら、あるいは。
私は親方を喜ばせたくなかったので、一言だけ返す。
「ええ」
その後、私と、親方に背負われて楽しそうなフロリーナ、そして、不機嫌な空気を漂わせている親方の三人は、予定通り教会へ向かった。
何を祈るでもなく聖堂へ足を踏み入れたところ、私と同じくらいの年齢の少女たちが、ちょうど聖歌の練習をおこなっているところだった。他にすることもなかったので、私たちは長椅子へ腰を下ろす。
澄んだ歌声に耳を傾けること、およそ三十分。聖歌隊の練習が終わる頃には、親方の機嫌は直っていた。
親方はいつも通りの無表情で、祭壇を見つめたまま呟く。
「そろそろ、帰りしょうか」
私たちは、席を立った。
教会の外へ出ると、入る前よりも、少し肌寒く感じた。見上げれば、今や、空は完全に黒雲に覆われてしまっている。
不意に、ぽつり、と頬に滴が落ちた。
左手の指先で、私は頬の濡れた部分に触れる。ゆっくりと足下を見れば、石畳の地面に点々と浮かび上がる、黒い模様。
雨だった。
「傘を持ってきませんでした」
親方は少し下を向き、右手で黒いソフト帽を被り直す。
「あめが、ふる、とき、かさが、ないと、どうなるのですか?」
親方の背中で、フロリーナが尋ねた。彼女の瞳は、純粋な興味から、きらきらと虹色に煌めいている。
「濡れます」
短く答え、親方はフロリーナを背中から下ろすと、手早くロング・コートを脱いだ。そして、それを私に差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
コートを受け取りながら私は、家を出るとき、傘がないのをあえて指摘しなかったことについて、少しだけ反省した。
親方は、コートの下に着ていた黒いカーディガンも脱ぎ、今度はフロリーナに被せる。
「ありがとうございます!」
虹色の瞳を輝かせ、フロリーナは余り余った袖を振った。親方は無言で、彼女の頭にソフト帽を載せる。
親方がフロリーナを背負うと、私たちは、足早に来た道を戻り始めた。
雨脚は、秒単位で強まっていく。
歩きながら私は、親方が風邪をひくであろうことを確信した。
翌日、親方は三十八度の熱を出し、寝込んだ。
この日の天気は快晴だった。
2. 箱に飾紐
その日は、私の十六歳の誕生日だった。
私は仕立屋のショウ・ウィンドウを眺めながら、まだ私がリュフェーシカにいた頃の誕生日のことを思い出していた。
一年の内、その日だけは、毎年決まってアップル・チーズケーキを焼くのだ。
その他、食卓には、茸と人参のスープ、ロールキャベツ、そして、ほどよく暖めたふかふかのブレッドが並ぶ。
食事を終え、食器を片付けると、お婆様から渡される飾紐のついた箱。
「お誕生日おめでとう、スヴェーナ」
ありがとうございます、そう返して包みを開ければ、中からは真新しい上等の服や靴、綺麗なアクセサリーなど、毎年違ったものが一点だけ出てくる。
早速お婆様の前で身に付け、くるりと回ってみたり、鏡を覗き込んだり。嬉しさも手伝い、気の済むまで ―― 本当に長い時間、そうして部屋の中を行き来した。
夜も更けた頃になって、ようやく 「ありがとうございます、大切にします」 とお礼を言い、私はもらった品をそっと箱へ戻す。
その日の晩は、必ず、枕元にその箱を置いて眠るのだった。
足下を、カサカサと流れていく落ち葉たち。冷たい秋風が、肩を撫でる。私は、思わず身震いした。
マヤに来てからは、一度も自分の誕生日を祝っていない。それでも、今日までの五年間、昔の習慣を思い出して懐かしむことなど、全くと言っていいほどなかった。
私は、帰ったら、アップル・チーズケーキを焼こうと決めた。
そのためには、市場で材料を買わなければならない。私は、急いで親方から頼まれたものを買い集めることにした。
新品の赤い自転車をその場に停め、スカートの左ポケットから、親方より渡されたリストを取り出す。そこには美しい筆記体で、 「白いシルク、金のチェーン、ゴールドの髪、碧の硝子、好きな布地を数種類。白いものは多めに。星屑」 と書かれていた。
いつものことながら、かなりいい加減な指定だと思う。
初めてこのようなリストを受け取ったときにはどうしていいか分からず、仕方なく生地屋の小母様に尋ねたところ、私の親方は、自分で直接生地を注文する際にも、同じような頼み方をするのだそうだ。それも、条件に当てはまるどのような生地を持ってきても、かならず一度目で 「それをいただけますか」 と言うという。
一度、小母様が冗談で、親方の提示した条件内で、最も安い布地を持ってきたところ、それでも親方は、迷わずその布を購入していったそうだ。
それほど多くの人形職人とは付き合いがないけれど、そのような買い方をしていく職人は他にいない、本当に彼は正規の職人なのか、と逆に質問されてしまったほどだった。私は、免状の入った箱が、食器戸棚の左下のひらきの奥のほうへしまわれているのを知っていたので、資格は持っています、とだけ答えておいた。
いつだったか、親方に、道具や布地、その他、人形を作る上で必要となる、もろもろの材料の名称や種類を、全て把握しているのかと質問してみたこともあった。親方の答えは、 「いいえ」 だった。とても嘘を吐いているとは思えなかったけれど、信じられない気持ちでいっぱいだった。しかし、今では私も親方に習い、無理に覚えないことにしている。
この日は、今日の私の気分で、いいと思った布地を何種類かとってもらった。大きさもまちまちだ。
必要な生地が揃ったところで、カウンターの向こうの小母様にお礼を言い、店を後にする。
他、数件の専門店を回り、金のチェーン、ゴールドの髪 ―― 植毛用の細い金糸、瞳に使う碧の硝子を入手した後、小さなスイーツ・ショップ、 「甘い星屑」 へ向かう。リストの一番下にある、 「星屑」 を購入するためだった。
私が店の脇に自転車を停めると、いつもの小父様が声をかけてくる。
「お、スヴェーナちゃん、いらっしゃい!」
人好きのする笑顔を浮かべ、カウンターの向こうで手を振っていた。私も少し微笑んで、小さく手を振り返す。
「今日も金平糖、いつもの量でいいかい?」
「はい」
答えるが早いか、慣れた手つきでスコップを操り、あっという間に金平糖五百グラムを計り終えてしまった。
「はいよ、お待たせ!」
「ありがとうございます」
私は左手で袋を受け取りながら、右手で小さな銀貨を五枚、渡した。
「はいどうも、毎度ありがとう」
小父様は受け取った代金を、確認もせずにエプロンのポケットの中へ落とす。微かに鳴る、チャリン、という音が可愛らしい。
停めてあった自転車へ戻り、前かごの中に金平糖の入った袋を入れると、私は小父様に向かって軽く会釈し、気持ち、急いで店を後にした。
最後に向かうのは、市場。ここからほど近いところにあるので、自転車に乗れば、あっという間に着く。
時刻は午後二時頃、通りの人出が少なかったこともあり、市場の西端には、二、三分で到着した。
露店の前を往来する人もまばらで、ほとんどの店主が、椅子にもたれて一時の休息をとっている。家々に囲まれたこの場所は、さほど風も強くなく、秋の日差しをほどよく遮る天幕のおかげで、心地よい昼寝ができるのかもしれない。
気持ちよさそうに寝ているところへ声をかけるのは忍びなかったけれど、やむを得ず、私は数軒の露店を回って、ケーキを作るのに必要な材料を揃え、帰途についた。
帰り道は、やや急な上り坂だ。しかし、この時間帯は海風が背中を押してくれるため、多少は楽になる。
家へは、あと一時間ほどで到着するだろう。
耳元で、ヒュー、と、風が唄った。
「スヴェーナ、おかえりなさい!」
玄関口に立つと、赤いワンピースを着たフロリーナが出迎えてくれた。
「ただいま」
私は彼女に向かって軽く微笑み、手にしていた荷物を静かに床へ置いてから、茶色のロング・コートを脱ぐ。
脱いだコートは、いつも通りハンガーに着せ、外套掛けに預けた。
そこでふと、親方の黒いロング・コートがないことに気付く。
「親方は、どこかへお出かけですか?」
「はい!」
フロリーナは、満面の笑みで返事を返した。
おそらく親方は、またフロリーナに 「少し出かけてきます」 とだけ告げ、家を出て行ったのだろう。何をしに出かけたのか、私には見当がつかない。
しかし、それもいつものことなので、特に気には留めなかった。
私は、床に置いた荷物を一度に持ち上げる。そして、そのまま作業場へ向かった。
私の後を、フロリーナがついてくる。
肘でドアノブを回して扉を押し開け、私は肩で電灯のスイッチを入れた。真っ暗だった部屋が、パッ、と明るくなった。
背後で、キャッキャッ、と上がる、嬉しそうな笑い声。
作業台へ進むと、その上に、紙袋の束を全て降ろす。スカートの左のポケットからリストを取り出し、念のため、買い忘れた物がないか、もう一度確認をした。
そつはない。
親方に頼まれた買い物のみをその場へ残して、ケーキの材料を取り上げると、私は足早に台所へ向かう。
アップル・チーズケーキを作るのは本当に久し振りだ。上手に焼ける自信はあまりなかったけれど、とにかく、作ってみたくて仕方がなかった。
既に開け放されているドアーを通り、ダイニング・キッチンへ入ると、私はすぐさま、キッチン・カウンターに材料を並べ始めた。
クリームチーズ、生クリーム、レモン、卵。グラニュー糖、薄力粉、バター、牛乳、ブランデー。そして、新鮮なアップル。
その様子を、フロリーナが興味深そうに見上げている。
「スヴェーナ、なにを、つくるのですか?」
「出来てからのお楽しみです」
親方が帰ってきたのは、午後六時頃。ちょうど、夕食の時間である。
黒いコートとソフト帽を外套掛けに押し付け、ダイニングのドアーをくぐる頃には、既に、食事の準備は済ませてあった。
メニューは、茸と人参のスープ、ロールキャベツ、そして、ほどよく暖めたふかふかのブレッド。そして、デザートにアップル・チーズケーキ。
普段に比べ、少し豪華な食卓に、親方は不思議そうな表情 ―― もっとも、それは私かフロリーナにしか判別できないであろうほど、普段の無表情とさほど変わりないものだったけれど ―― を向ける。
「今日は、何かあるのですか」
「いいえ」
私は、簡単に露見してしまいそうな嘘を吐いた。しかし、親方はそれ以上追究しようとはせず、 「そうですか」 とだけ言った。
その夜も、いつもと変わらず食事は始まる。食事中の会話は、ほとんどない。フロリーナの語る、彼女の目線から見た楽しい出来事だけが、話題の全てだ。
デザートのアップル・チーズケーキは、思いの外、美味しく焼けていた。親方も、おそらく同感だったと思う。食べ終えた後の親方は、いつにも増して機嫌がよさそうだったから。
食後は、全員で食器を片付ける。食器を洗うのが親方、拭くのがフロリーナ、戸棚にしまうのが私。
テーブルの上が完璧に綺麗になったのは、午後七時を回った頃だった。いつもなら、ここで解散し、各々自分の部屋へ向かう。
しかし、今日は少し違った。
「どうぞ」
何の前触れもなく、親方は懐から小さな箱を取り出し、私に向かってそれを差し出す。
飾紐のついた、綺麗な箱。
私は、思わず目を丸くして親方の顔を見上げてしまった。
「誕生日プレゼントです」
無言の問いに、親方は答えた。
今日、気付いたのか。はたまた、もうずっと前から知っていたのか。
どちらにせよ、親方なら、このようなことをやっても不思議ではないと思った。
「開けていいですか」
「どうぞ」
私は、そっと紐を解く。
中から出てきたのは、一枚の高級羊皮紙だった。紙には既に、綺麗な字で何かが書かれている。
『出産祝い用。ゴールドの髪、碧の瞳、白いシルクのドレス。以下、詳細に関しては依託 …… 』
人形の注文書、だった。
「私に、ですか」
「はい。納期は、一ヶ月後です」
あまりに突然の出来事だった。
その瞬間、嬉しさや期待感、不安など、いろいろな感情が一度に沸き上がってしまい、私は思わず、何も考えずに口にしてしまう。
「ありがとうございます、大切にします」
3. 赤い封蝋
この家には、一本の大きな桜の木がある。ウッド・デッキの左に植わっていて、家の屋根と共に、ちょうどよい具合に西日を遮ってくれる。特に、今日のような真夏日には、なくてはならない存在だった。
私は花に水を遣る手を止め、後ろを振り返る。ロッキング・チェアーに腰掛け、頭を垂れた親方の姿が目に入った。先ほどまで読まれていた本が、デッキ上に落ちている。
拾いに行こうか否か一瞬迷ったけれど、起こしてしまうと悪いと思い、私はそのまま水遣りを続けることにした。
少し離れた芝地には、一人楽しそうに紋黄蝶を追いかけるフロリーナ。世話しなく動き回る白い麦わら帽子が、陽の光を反射して白く光っている。
私の視線に気付いたのか、フロリーナは足を止め、私に向かって大きく手を振った。私も、少し微笑んで、小さく手を振り返す。
その時、庭の北側から、キキッ、と、自転車のブレーキ音が聞こえた。
同時に、男性の声が届く。
「こんにちはー。郵便です」
手にしていたピッチャーをウッド・デッキの段上に置き、私は小走りに門へ向かった。
「こんにちは、アディンセル嬢。今日も暑いですね」
「ええ、本当に」
この家に郵便物を届けてくれるのは、いつも同じ配達員。感じのいい、三十代前半の細身の男性である。
郵便物が届くことなど月に一、二度しかないので、彼がやってくることは滅多になかったけれど、会う度に軽い雑談を交わしている。
「こちらが郵便物です」
彼が差し出したのは、一通の封書だった。
「ありがとうございます」
私は、お礼を言って受け取る。
「親方さんには、お変わりありませんでしたか?」
「ええ。今は、そちらのウッド・デッキで昼寝をしておりますわ」
「なるほど、これだけいい陽気ですからね」
このような調子で五分ほど会話をした後、配達員は 「では、失礼」 と帽子をとって挨拶し、町のほうへと戻っていった。私はそれを見送ってから、改めて封筒に目を向ける。
高級そうなアイボリーの紙に、柔らかい字で住所と宛名が書いてある。住所はこの場所に間違いなかったけれど、宛名のほうは、驚くべきことに、私の名前になっていた。
裏を返して、差出人を確認する。
アリフレート=O=エイプルトン。
どこかで聞いたことのある名だ。しかし、相手の顔が思い出せない。
封筒は、赤い蝋でしっかりと封をされている。封蝋には印が押されていたけれど、それがどこの家のものなのか、まるで見当がつかなかった。
こめかみに手を当て、私は真剣に記憶の糸を探る。
そうして、どれほどの時間、その場に立ちつくしていただろうか。ふと気付けば、私のスカートの右側を掴み、フロリーナが不思議そうに私を見上げていた。
「スヴェーナ、どうしたのですか?」
私はフロリーナに笑顔を向け、静かに頭を振る。
「いいえ、何でもありません」
「てがみ、ですか?」
「はい」
「だれ、から、ですか?」
「それが、分からないのです。差出人に、覚えがないのです」
答えて、再び封筒に視線を移す。
「おやかた、なら、しってる、かも、です!」
私も、同じことを考えた。しかし、気持ちよさそうに居眠りをしているところを起こしては悪いと思い、後にしようと考えたのだった。
ところがフロリーナは、止める間もなく、ウッド・デッキのほうへ走って行ってしまう。仕方なく、私も歩いてその後を追った。
「おやかたー! おきて、ください!」
フロリーナは、ロッキング・チェアーの左側の肘掛けに飛びつき、椅子を軽く揺らした。可愛らしい呼び声に、親方は小さく唸り、右手で額を抑えながら、ゆっくりと上半身を起こす。そして、左手に何も持っていないことに気付くと、ばつが悪そうに落ちている本を拾い上げた。
「何ですか」
親方は、寝ぼけ半分で尋ねる。ただでさえ思考能力が鈍っているであろうに、そこへ、更に親方を混乱させるような、フロリーナの一言。
「スヴェーナの、てがみ、だれ、から、わからない、です」
「手紙、ですか」
「はい!」
親方は、少し困ったように、額に置いていた手を後ろに回し、軽く髪をかき回す。やはり、フロリーナが何を言いたいのか、よく分からなかったようだ。
私もウッド・デッキに上がり、親方に手紙を差し出した。
「私宛てに手紙が届いたのですが、差出人に覚えがないのです。この方をご存知ですか?」
右手を前に回し、親方は封書を受け取る。表を一見してから、裏返して、問題の差出人の名前を興味深そうに眺めた。
「意外と遅かったですね」
そう言って、親方は封書を私に返す。
「何がですか」
「もう少し、早く出してこられると思ったのですが」
どうやら、私に向かって言っているのではないらしい。私は、質問を二度繰り返そうとして、止めた。
「お尋ねの件ですが、彼はマヤの領主のご令息です。以前、注文を受けたことがおありでしょう」
親方の言葉に、ようやく喉のつかえが取れた。名前にのみ覚えがあったのは、つまり、そういうことだったのだ。
あの時は、実際に人形を作る以外、受注から納品処理まで全て親方が行なってくれたので、私が依頼主と顔を合わせたのは、納品の時のほんの少しの間だけだった。それも、相当緊張していたので、ほとんど相手と目を合わせていない。覚えがないのも無理はなかった。
「領主のご令息、だったのですか」
今更になって、初めての依頼主の素性を知るとは。私は、驚きと恥ずかしさとでいっぱいになった。
「それならそうと、あの時に仰ってくださればよかったのに」
親方は、しれっと言う。
「重荷になると思いましたから」
確かに、親方の言う通りである。私は、何も言い返せなかった。
「それで、どのような内容なのですか」
興味津々といった様子で、親方が開封を促す。差出人の肩書きに驚いてしまい、中身のことなどすっかり忘れてしまっていた私は、少々慌てて封を切った。
封筒の中には、また高級そうな便箋が二枚。広げれば、宛名書きと同じ柔らかな筆跡で、文面が書かれていた。
私は、黙ってその手紙を読んだ。しかし、一度では理解できず、もう一度、今度はゆっくりと、最初から読み返した。ようやく内容が理解できると、更に信じられない気持ちでいっぱいになる。
「ええと、これは、もしかして、恋文、というものですか?」
私は顔を合わせないまま、親方に手紙を回した。
比較的落ち着いてはいたものの、私の頬は赤くなっていたかもしれない。もちろん、夏日だからということもあったけれど、それにしても暑かった。
顔よりはいくらか冷たい両の手を頬に当て、私が頭を冷やしている間、親方は黙って手紙を読み進める。
そうして、一通り目を通し終えたところで、親方は便箋を私に返し、静かに告げた。
「どうやら、そのようですね」
楽しそうだ。
「こいぶみ、とは、なに、ですか?」
「相手への恋心を綴った手紙のことです」
フロリーナの質問に、すかさず、親方が答えた。その表情は、相変わらずほとんど動いていない。しかし、本当に、心から今の状況を楽しんでいるのであろうことは伺える。
「スヴェーナ、こいぶみ、いただいた、のですか?」
私は、何も言えなかった。
「それで、どうされるのですか」
「とにかく、お会いして、何かの間違いでないか確認してみます」
口にすると同時に、私は新しく生まれたその重要な予定を、頭の中に書き留めた。
「間違いではないと思いますが」
親方の呟きを、私は聞かなかったことにした。
4. 夜闇と猫
私はダイニング・キッチン南側の窓越しに、夜の海を眺めていた。
海面は、白い月光と無数の星たちを写し、静かに揺れている。以前人形の瞳に用いたことのある、ラピス・ラズリに似ていると思った。
時刻は、真夜中過ぎ。親方 ―― とフロリーナは、とうに寝てしまっている。
とても静かだ。
灯りは一切つけていなかったものの、窓から差し込む月の光が部屋の中を青く照らし出していたので、暗さは感じない。
ただ、すっかりストーブの余熱が冷めきっていた室内では、真冬の寒さが肩に凍みた。
「どうしたんだい、スヴェーナ。眠れないのかい?」
どこからともなく黒い猫が現れ、ちょこん、と私の隣に座る。
「明後日は晴れの日だろう。こんなに遅くまで起きていると、肌が荒れてしまうよ」
「お婆様。お久し振りです」
私は少し微笑んで、彼女を見下ろした。黒猫は、床の上で楽しそうに尻尾を遊ばせている。
「本当に久し振りだねえ。8年振りだったかね?」
「はい」
私は、ガラスの向こうに視線を戻した。
「途中で音を上げて帰ってくるんじゃないかと心配していたが、よく頑張ったよ」
穏やかな溜め息を一つ吐き、黒猫は金の目を細める。
「よかったよ、本当によかった」
「親方のおかげです。そして、お婆様の」
「なに、あたしゃあ何もしてないよ。人形職人さんと、スヴェーナ、お前自身の働きによる結果だよ」
黒猫は左前足を舐め、二、三度顔をこすった。洗い終えると、今度はしなやかに体を折り、その場で丸くなる。まるで、黒いクッションのようだった。
「いい人そうじゃないか」
私を見上げ、悪戯っぽく片目をつむって見せる黒猫。私は、ゆっくりと首を縦に振る。
「ええ。とても良い方ですわ。穏やかで、優しくて。私などには勿体ないくらいです」
本当に心の底から、そう思って言った。ああ、そうだね、と、黒猫も頷く。
北からやって来た陸風につつかれ、窓がカタカタ鳴った。
「もう、シルフィアイの紋章はすっかり消えてしまったのかい?」
「はい」
黒猫の問いに答えて、私はナイト・ドレスの袖を、肩口までまくる。そこには、青白い素肌があるだけで、つい一昨日までそこに刻まれていた、あの紅い幾何学模様はなかった。
「もう、私には風の精の唄は見えません。満月の涙のストケシアを咲かせることもできませんし、結局、虹の破片を使った人形も作れるようになりませんでした」
「いいんだよ、それで。それでいいのさ」
でも、と、私は月を見つめたまま、続ける。
「私は、全部忘れませんわ、お婆様。全部」
ほんの少しだけ笑いを含んで、そう宣言した。そして、右脇の床に、ちらと視線を送る。
黒猫の、大きな丸い目と出会った。
相当驚いたのか、黒猫は少しの間、そのまま目をパチパチさせる。そして、突然、くくっ、と笑い出した。
「いい心がけだよ。唄の先まで見えなくとも、それで、また唄を聴くことくらいはできるだろうさ」
「ええ、そう願っています」
本当に、静かな夜だった。
「それじゃあ、あたしはそろそろお暇しようかね」
よいしょっ、と小さく声を立て、黒猫は身を起こす。
「元気でやるんだよ」
「はい。お気をつけて、お婆様」
「ありがとうよ」
少し立ち止まり、振り返ってそれだけ言うと、黒猫は夜闇の向こうへ消えていった。
「 『ツケ』 は、これで返していただけたことになるのでしょうか?」
私は、誰もいない暗がりに、答えの返らない問いを投げかけた。
5. 桜色の空
馬車の窓から入ってくる風は、若芽の青い香りに満ちていた。
白い帽子の頭を抑え、少し外に顔を出せば、目の前には一面の草原が広がる。植物の一本一本が風になびいて揺れる様は、さながら白波のようだった。
御者台の先には、草原の真ん中にぽつりと立つ、水色の外壁の一軒家。
私が領主家に嫁いで、五年目の春だった。
「おかあさま、すてきなおうち、ですね!」
「ええ、そうですね」
私は、膝の上に座っている小さな少女 ―― 私の娘に微笑みかける。夫譲りの亜麻色の髪に、私譲りのディープ・ブルーの瞳。人形のように愛らしい顔立ちは、どちらに似たのか分からない。
「玄関の前のミモザ、随分大きくなりましたね。五年前は、ほんの苗木だったのに」
「本当に。ちょうど花の綺麗な時期に来ることができて、良かったですわ」
夫と私も、目を見合わせて笑った。
空は青く晴れ渡り、点在する白い雲を浮き立たせている。そのコントラストが、例えようもなく美しい。
風に乗って北よりやってきたのであろう、一羽の鳶が、時折、高い声で歌う。
途中の景色を楽しみつつ馬車に揺られていると、ほどなくして、私たちは親方の家へ到着した。
馬車を降り、小さな門を越えると、そこは、かつて歩き回った、記憶のままの庭。
「今年は、畑にストロベリーを植えたのですね」
私は思わず、誰にともなく呟いた。
「おかあさま、おやかたは、どこ、ですか?」
「さあ、どこでしょうね」
私は、迷わずウッド・デッキのほうへ目を向ける。満開の桜の、煙るような薄ピンクが目に飛び込んできた。
ひらりひらりと花びらの舞い降りるデッキ上に、ロッキング・チェアーが一つ。そこに腰掛けているのは、鮮やかな周りの色彩とは対照的な、黒いベスト、白いシャツ、黒いトラウザース、全身にモノクロームをまとった痩せ気味の中年男性。
私の視線の先に気付いたのか、娘が、スカートの左脇を軽く引く。
「ね、おかあさま、あのかた、おやかた、ですか?」
「ええ、そうですよ」
遠くに見える親方の頭は垂れていて、側の床の上には、一冊の本が落ちている。どうやら親方は、また居眠りをしているらしい。
突然起こして驚かせては悪いと思い、私は、静かに親方の元へ向かおうと考えた。
ところが娘は、止める間もなく、ウッド・デッキのほうへ走って行ってしまう。仕方なく、私も歩いてその後を追った。
「おやかたー! おきて、ください!」
娘は、ロッキング・チェアーの左側の肘掛けに飛びつき、椅子を軽く揺らした。可愛らしい呼び声に、親方は小さく唸り、右手で額を抑えながら、ゆっくりと上半身を起こす。そして、左手に何も持っていないことに気付くと、ばつが悪そうに落ちている本を拾い上げた。
「何ですか」
親方は、寝ぼけ半分で尋ねる。その問いに、溢れんばかりの笑顔で答える娘。
「あそびに、うかがった、です。こんにちは!」
まだ頭が回らないようで、親方は何も言わずに声の主を見つめた。数秒を置いて、ようやく相手が確認できたのか、親方は目を丸くする。
「フロリーナ」
「はい!」
娘は、キャッキャッと笑った。
一歩遅れて、私もウッド・デッキ上に上がる。
「お久し振りです、親方」
スカートの両端をつまみ、軽くお辞儀をした。親方は、驚いた表情 ―― もっとも、それは私にしか判別できないであろうほど、無表情に近いものであったけれど ―― のまま、右手を頭の後ろに回し、髪を弄ぶ。
「ああ、スヴェーナさんでしたか」
「ええ。突然にお邪魔してしまって、申し訳ありません」
「構いません。エイプルトンさんも、遠方はるばる、ようこそいらっしゃいました」
「ありがとうございます。何かと忙しくて、式の日以来ご挨拶にも伺えず、本当にすみませんでした。お元気そうで何よりです」
ハンチングを取り、胸に当て、夫は穏やかに笑って会釈をした。そして、どちらからともなく右手を差し出し、二人は握手をする。
「こちらの可愛らしい少女が、ご令嬢ですか」
私、夫と挨拶を済ませた後、親方は先ほどから気になっていたらしい、隣で瞳をキラキラさせている私の娘に顔を向けた。
「はい。娘のフロリーナです」
夫は、少し照れくさそうに答える。
「こんにちは!」
娘は、再び挨拶をした。今度は、私の真似をしてスカートの両端をちょんとつまみ、たどたどしい所作でお辞儀をする。
それを受けた親方は、珍しいことに、実際に口角を上げて微笑んだ。
「こんにちは」
挨拶を返し、前屈みになってフロリーナの頭を撫でる。
喜んだフロリーナは、親方の膝の上に座ろうと、黒いトラウザースを登り始めた。
「フロリーナ」
私が諫めるように名を呼ぶと、ぴたりとその動きは止まる。しかし、親方は 「構いませんよ」 と、フロリーナを抱き上げ、自分の膝の上に降ろした。
「ね、おやかたは、すてきなおはなし、たくさん、ごぞんじ、です、よね?」
期待を込めた眼差しで、フロリーナが尋ねる。すると親方は、少し考えるように、桜の木を見上げた。
「そうですね。いくらかならば、お話しできるかもしれません」
いくらか、の中に、これから先の物語が入っているか否か、私には分からない。いずれにせよ、親方はまだ、風の精の唄を追い続けているのだと思った。
「立ち話も何です、まずは、お茶にしましょう。外に椅子とテーブルを出します。スヴェーナさん、お茶の用意をお願いできますか」
「はい」
私が頷くと、親方はフロリーナを静かに下へ降ろす。そして、ゆっくりと、椅子から立ち上がった。
「エイプルトンさん、どうぞ、お付きの方も呼んでいらしてください」
「これはご丁寧に、どうもありがとうございます」
夫は心底嬉しそうに頭を下げ、小走りに馬車のほうへ駆けていく。その背中を見送ってから、親方は回れ右をし、椅子とテーブルを取りに行くため、ウッド・デッキと繋がっている書斎へ向かった。
「ああ、そうだ、スヴェーナさん」
家の中へ入る直前、親方は立ち止まり、振り返って、玄関へ回ろうとしていた私を呼び止める。
「星屑、いつもと同じ場所にしまってありますから」
そう言って、少しだけ微笑んだ。
私も微笑み返し、黙って頷く。
一瞬だけ、耳に響いたような気がした。風の精の唄が。
「ほしくず!」
フロリーナは、嬉しそうに声を上げた。
ざあっ、と潮風が吹いて、桜の花びらたちを、遠くへ連れて行く。
空までもが、桜色に染まっているかのようだ。
「きれい、ですね」
私は、誰にも聞こえないよう、そっと呟いた。
fin.
幕後
夢の続き
0. 唄の行方
私が祖母の家に引き取られたのは、二歳の春だった。もっとも、今の私には、その時の記憶も、それ以前の記憶もないのだけれど。
祖母から聞いた話では、私の父母は、遠い国の王様に呼ばれ、やむなく私を置いて外国へ旅立ったのだそうだ。実際どのような事情があったのかは知らない。
かくして、リュフェーシカの路地裏にひっそりと佇む、祖母の家での生活が始まった。
祖母は穏和な人で、知り合いこそ少なかったものの、家に訪れる客人も、皆同じように素敵な人だった。
中でも私が好きだったのが、いつも黒いロング・コートをまとってやって来る、白髪の老人。彼は、いつも穏やかに笑っていて、よく私を、その膝の上に乗せてくれた。
訪れる度、私に金平糖の入った小さな袋を手渡して、こう言った。
「昨夜、南の空へ出かけて採ってきた星屑ですよ」
私にとって、金平糖は一番のご馳走だった。
彼がそうであったように、祖母もまた、日常の様々なものを不思議なものに変え、それにまつわるエピソードを語ってくれた。
祖母は、空想の物語を語ることが大好きだった。
祖母の語る話の中では、祖母の客人たちも皆、特別な生い立ちを持つ、魅力的な登場人物に変わる。私にとって、家にやって来る大人たちは、憧れの対象となった。
物語の中心は、大方、祖母がかつてここで経営していた小さな店、 「黒猫雑貨店」 。
若かりし頃の祖母、ここでのみ手に入れることのできる不思議な物品や、店を訪れる独特の雰囲気を持った客たちが、物語を彩るピースだった。
幼い私は、祖母の話を聞き、外の世界はなんて素晴らしいところなのだろう、と思った。私が風の精の唄に魅入られてしまったのも、偶然の出来事ではないと思う。
シルフィアイにかかったのは、私が五歳の時だった。
本来なら悲しむべきところを、祖母は喜んだ。なぜなら、彼女も、かつてシルフィアイを経験した一人だったから。
祖母は、今までよりいっそう、私に物語を語って聞かせるようになった。シルフィアイにかかっていた私は、そこから話の続きを紡ぎ、今度は祖母に語って聞かせた。
そうして、いくつもの季節が過ぎ、私が七歳になった春。
祖母は、永の眠りについた。
穏やかに眠る祖母の姿に、私はどうしても、彼女が帰らぬ人となった事実を受け入れることができなかった。それは、シルフィアイにかかっていたせいもあったのだろう。
葬儀は、親切な近所の人たちが執り行ってくれた。その間、私は、ただ黙って、祖母が目覚めるのを待ち続けた。
祖母の墓は、郊外の公共墓地にひっそりと建てられた。私は未だ両の目を塞いだまま、祖母を待ち、墓の前で静かに立っていた。
すると、どこからともなく黒い猫が現れ、ちょこん、と私の隣に座った。そして、人間の言葉でこう言ったのだ。
「どうしたんだい、スヴェーナ。こんなところに一人で。風邪をひいてしまうよ」
猫が喋ったことに一瞬驚きはしたものの、私はすぐに、祖母が帰ってきたのだと喜んだ。
黒猫は私に、この三日間で自分に起きた出来事と、その結果について語ってくれた。
掻い摘んで話せば、彼女は古くなった人間の体に不便を感じたので、以前からなりたいと思っていた、猫の体に心を入れ替えたのだという。
私はその話を、あっさりと信じた。
信心深い人々の多く住む街だったこともあり、私を引き取りたいという慈悲深い人は何人も現れたけれど、その都度、私には祖母がいるからと、丁重に断り続けた。
もともと、足の悪かった祖母に代わって家事のほとんどをこなしていたので、一人での生活には、さほど困らなかった。自分で生活費を工面する必要もなかった。以前から、差出人のない封書で定期的にまとまったお金が届いていたからだ。
それからの四年間、私は黒猫と二人だけで暮らした。
祖母は黒猫であると信じきっていた私は、はばかることなくそのことを口にしたので、始めは同情を示していた近所の人々からも、やがて気味悪がられ、敬遠されるようになっていった。
時折訪れてくれていた祖母の友人たちも、それぞれの理由があったのだろう、やがて誰一人として現れることはなくなった。
それでも、祖母は以前と変わらず話し好きで、たくさんの物語を私に聞かせてくれた。そのため、全く退屈することはなかった。私にとって世界とは、依然、美しいままの場所だった。
朝を迎え日暮れを待つ、単調な生活を続いた。そのような折り、ある日、突然、私の目の前に現れた人物。それが、親方だった。
全身をモノクロームに包んだ彼の姿に、私は、かつて祖母が語ってくれた、あの白髪の老人に関する一連の物語を思い出した。そして、彼は若かりし頃の老人で、いつかの約束を果たしに来たのだと思った。それが間違いであったことに気付いたのは、親方の家に引き取られた後。
私は、親方との交流を通し、かつて祖母の友人が祖母に残していった 「ツケ」 を、代わりに受け取ることになったのだった。今になって思えば、それは彼女の遺志だったのかもしれない。
それからの私は、自分でも驚くほど、変わっていった。
親方が、私と同じシルフィアイであったことも、そのきっかけだったと言えるだろう。
親方は私と同じ空気を持っていたけれど、私の世界と親方の世界は、大きく異なっていた。
かつて、祖母があの老人について語ったとき、彼の世界はモノクロームなのだと言っていた。親方の世界もまた、モノクロームだったのだ。あの時、祖母は自分の友人の話ではなく、親方の話をしていたのかもしれない。
同じシルフィアイであった私には、親方の世界をかいま見ることができた。彼の持つ色のない世界は、私にとっても居心地のいい場所となった。
しかし、親方の白黒の世界にも、唯一、色のある存在があった。
それが、フロリーナ。
私にとってのモノクロームが祖母であったのとは、全く対照的に、である。
その理由に察しがついたのは、つい、この間のこと。親方は、物語を語る相手が欲しかったのかもしれない。
私のフロリーナは、親方がとても好きになったようだ。
領主職の引き継ぎもようやく一段落し、少し落ち着いたので、街へ出かける機会も増えるだろう。そう、夫は言っていた。その折りには、ぜひ、また親方の家へお邪魔しよう、とも。
それを聞いたときの、フロリーナの喜びようと言ったら。
先日届いた親方からの手紙には、美しい字で、 「フロリーナの忘れ物を同封いたします」 とだけ書かれてあった。
便箋と一緒に中から出てきたのは、色を残したまま綺麗に押された、数枚の桜の花びら。
親方にも、あの煙るような桜色が見えていたのかもしれない。
0. 辞書の間
拝啓
草原を渡る風までもが、新緑の色に染まる時節となりました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。
前回いただいたお手紙では、綺麗な春紫苑の押し花をありがとうございました。早速、栞にさせていただきました。これで、読書の度に、先日のお茶の時のことを、ありありと思い出すことができるでしょう。
フロリーナ嬢が押し花を大変気に入られたとのことでしたので、庭のミモザを同封させていただこうと思ったのですが、押してしまったら、ミモザの花の魅力が半減してしまいましたので、断念いたしました。
また、押し花にちょうどよい、綺麗な草花を見かけましたら、お手紙を差し上げたいと思います。
旦那様、フロリーナ嬢にも、よろしくお伝えください。こちらにおいでの際には、またお立ち寄りいただけると、嬉しく思います。
どうかお健やかに、新緑の季節をご満喫ください。 敬具
五月一日 リュドミール=アディンセル
スヴェーナ=エイプルトン様
追伸 水分の多い植物になりますと、紙一枚では足りない可能性があります。ページの一番下に入れるのではなく、新聞紙で挟み、表紙の平らな二冊の本の間に入れると良いでしょう。旦那様の大切な書物に染みを作らないよう、お気をつけください。
fin.